Vol.64 カムバック

マチコの赤ちょうちん 第六四話

「うわぁ、いい匂いだなぁ。もう俺、ずっとここに居たいよ~」
深緑色のタンクの林を抜けながら、最後尾を歩く松村が叫んだ。その声がひんやりと冷気のこもる酒蔵の中にこだました。
土壁の古い窓から差し込むほのかな明かりが、真知子と津田、澤井の顔を照らし出した。蔵の太い柱には、“秋田銘酒”の古い焼印が残っている。
この蔵元を訪れることになったのは、お正月用の大吟醸を手に入れたいと真知子が津田に相談したことから、急遽、週末のマチコ常連ツアーとあいなったのだった。
蔵の外にはしんしんと粉雪が降り、真知子たちは静寂な空気に包まれていた。
「ね!言った通りでしょ。このもろみの香りを知ったら、誰だってぜったい日本酒ファンになるわよ」
先頭を歩く真知子が、松村を振り返ってウインクした。
「しゃあけど、和也君が初めて酒蔵に来たとは意外やったなぁ。彦根とか北近江にも、ぎょうさん、ええ蔵元さんがあるんやで。いろいろ行かんと、もったいないがな」
津田が手に息を吐きかけながら、松村にほほえんだ。
「あっ、はい。友だちに蔵人がいて、よく誘われるんですけど、こっちも忙しくて……。こんな機会でもないと、なかなか腰が上がんないですよ。ところで津田さん、“ふなくち”は、まだっすか?」
松村は気もそぞろなようすで、薄暗い蔵の中を見回した。
「まあまあ、ちょっと待ちいな。焦らんでも、北野杜氏さんがちゃんと飲ませてくれるよって」
そう言った津田の視線が、真知子の少し前を歩く初老の男性に向いた。
北野は、津田と旧知の間柄だった。彼は松村の声にまなじりをほころばせ、やさしい笑顔を見せた。
「もうすぐ、お飲みいただきますよ。……あの、松村さんでしたね。初めて酒蔵にいらしたあなたに、お願いがあります。私の酒をどう感じるか、率直な感想をもらえませんか」
「えっ……お、俺がですか?」
松村は、どぎまぎとして答えた。
「ええ、あなたにお願いしたいのですよ」
そう言って北野は、もう一度ニコリと笑って津田を見た。津田は「うん」と頷いて、「そや、和也君がええねん。わしや真っちゃんや澤井さんみたいに、なんべんも酒蔵に来とる人は、ちょっと感動の度合いが少のうなってるさかいな。初体験で感動しとる和也君の声を、北野さんに聞かせたってほしいねや。この人、今年70歳でな。蔵元からのたっての願いで、5年ぶりに現場にカムバックしはったんや。実は、今日が大吟醸の初搾りでな。いったん休めた自分の気持ちを若い日本酒ファンの声を聞いて、元に戻したいそうや」
津田の言葉に、北野が水色の作業帽子を取って、みんなに頭を下げた。白髪混じりの頭が、彼の年齢を感じさせた。
松村や真知子たちが黙って会釈を返すと、北野は「じゃあ、こちらへ。“ふなくち”を、お飲みいただきましょうか」と、奥まった場所へ歩き始めた。そこには、“ふね”と呼ばれる四角い木箱があり、中年から若い年代の蔵人たちが、今まさに酒袋を搾ろうとしていた。
北野は、搾り口からチョロチョロとこぼれ出した薄白い酒を盃ですくい、まずは、松村に差し出した。
松村は、津田をちらと見て「じゃあ、お先に」と一口含んだ。真知子と澤井が、固唾を飲むような顔で、松村の声を待った。
「うっ、うっ、うま~い!これ、スゴイっすよ!めっちゃ、うまいやん!まいったわ!ぜんぜん、ブランクなんてないじゃん!」
松村が身震いしながら、しっちゃかめっちゃかな言葉を叫ぶと、蔵人たちは唖然とした顔で彼を見つめた。
「あのなぁ……お前、もっとちゃんと答えろよ。ったく、お酒造ってる皆さんに失礼だろう」
澤井があきれ顔で溜め息と吐くと、「いえいえ……私はそんな言葉を待ってたんです。……ありがとう、ありがとう、松村さん」と、北野は松村の手をぐっと握り締めた。
「どうや……北野はん。まだまだ、いけるやろ」
「はい……やってみます。こいつも待っててくれたんだと、思いますし」
津田にそう答えた北野は、頬を引き締めながら仕込み用のホーロータンクを見上げ、語った。
「去年の末、会社を閉めるべきか、続けるべきか、蔵元は悩んでおられたそうです。でも、5年ぶりに平鹿郡山内村にある私の実家にいらして、復帰してくれないかとおっしゃたんですよ。正直言って、悩みました。年々、機械設備も良くなり、若い人たちが増えていく中で、私のような老いた職人が本当に必要とされているのかどうか……でも、帰って来て、こいつを見て、頑張ってみようと思ったんですよ」
タンクの緑色の肌を触る北野に、真知子がゆっくりと訊ねた。
「このタンク……大切なものなんですね」

「ええ、私と同じ年に入社したタンクでしてね。もし、私が帰って来なければ、お払い箱になってたんですよ。焼酎メーカーのタンクとして。……もう一度こいつが腹いっぱいになる、うまい酒を造りますよ」
窓の雪明りが、北野の瞳を輝かせていた。
その表情を、真知子たちが黙って、しかし満面の笑みで見つめていた。
「お願いします!“ふなくち”、おかわり!」
盃を掲げた松村の元気な声が、蔵を囲む真っ白な雪景色に吸い込まれていった。