Vol.69 ピース

マチコの赤ちょうちん 第六九話

やけに混んでるなぁ」
マチコの暖簾をまくった澤井が、しょげた声を洩らした。
給料日直後ということもあってかテーブル席は満員で、奥の小上がりには、会社の同僚たちとはしゃぐ松村の顔も見える。
カウンター席は肩を詰め合うほどの状態で、料理に忙しい真知子は「いらっしゃい!」と声を返す余裕も無さそうだった。
「澤井ちゃん、ここ、座れるよ!」
座高の低い宮部がひょいと手を上げ、カウンターの奥から声をかけた。
「あっ、宮さん。そこにいたの?」
ほっとした表情で澤井は宮部の方へ歩み寄ったが、次の瞬間、ピタリとその足が止まった。
澤井の視線は、カウンターの真中で背中を向けているハンチング帽の男に注がれていた。賑やかな客たちに挟まれ、男は一人でぬる燗の徳利を傾けていた。剃り残した鬚は白く、ずいぶんと老けて見えた。
ふいに動かなくなった澤井を宮部は不思議そうに見つめていたが、気になって立ち上がった。
「どうしたの?澤井ちゃん」
澤井のこわばった顔つきに、宮部は遠慮気味にささやいた。
「えっ!……ちょっ、ちょっとね。あっ、座りましょう」と澤井は我に返って、宮部の隣席へ腰を下ろした。
それでも澤井は、心ここにあらずといった顔で、ためつすがめつハンチング帽の男を見つめ、酒の注文も忘れていた。
「おいっ、大丈夫かい?何も注文しねえの?」
澤井の目の前で、宮部が手のひらをプラプラ動かしながら訊いた。と同時に周りの客たちの会話を割って、真知子の声がした。
「あら、澤井さん!いらっしゃい。いつ来てたの?」
しかし澤井は「えっ、あっ……ああ。今さっき」と生返事すると、また男の方に一瞥を投げた。
「澤井ちゃん。あの人と、どういう関係なんだよ?今日のあんた、おかしいよ」
宮部は自分の盃に酒を注いで澤井に勧めると、目で男を指した。真知子もそれに反応して「えっ?澤井さん、知り合いなの?じゃあ良かった、ちょっと心配してたの。あの人、来てからずっと、一人でブツブツ言って飲んでるし」と男の方を振り向いた。
「もしかして、ほかのお客さんに毒づいてんの!?迷惑かけてるのか!」
澤井は声を上げると、キッと目元を厳しくした。一瞬、周りに緊張が走り、真知子は思わず声を低めた。
「ううん……そうじゃないの。あの人、優しそうな顔で、でも寂しそうな声で、何かつぶやいてるだけよ。それに心配なのは、あの杖なの」
真知子の見る先にはテーブル席との仕切り板があり、そこには白い杖が立てかけられていた。
「……そうか、目が。そりゃ、酔うと足元に良くないね。でも、本人は適量を知ってるだろう」
その宮部の言葉に「そう……ね」と、真知子は微笑みながら答えた。
しかし澤井は、頬杖を突いたまま口を開いた。
「彼、大学時代の同級生だと思うんです。あの首の痣、ぜったい間違いない。武田って名で、下宿仲間につまはじきされてね。酒癖の悪い男で、すぐに暴力沙汰だった。実は、俺まだ、あいつに貸しがあるんですよ……確かめてみます」
確かに、男の後頭部からうなじにかけては、奇妙な形の赤い痣が広がっていた。
「えっ!そんなわけないんじゃない?かなり年配の人みたいよ」
驚く真知子の声も聞こえないのか、澤井はギリッと歯を鳴らすと、宮部の盃をあおって立ち上がった。
「おっ、おい!澤井ちゃん、落ち着け。おいったら!」
目を丸くしている宮部を無視して、澤井はハンチング帽の男に歩み寄った。
澤井が口を開きかけ、真知子がそれを止めようとした時、「ああ、どうぞこの席でよろしければ、お替りしましょう。僕は、もうすっかり出来上がってしまって、そろそろ帰ろうと思ってたところですから。さあさ、どうぞ、どうぞ」と、男は慇懃すぎるほど何度もおじぎをして、席を譲った。
澤井に笑いかける男の顔は、老いて見えるとは言え、思ったとおり同級生のものだった。だが、その二つの瞳は灰色に濁っていた。
白内障だと澤井は直感した。あっと怯みながらも、澤井は「あの……あんた、武田さん?」と問いかけた。
しかし、男は聞こえなかったのか「すみませんが、ちょっと酔ちゃったみたいで、そこにある杖を取っていただけませんか」と、赤い頬をゆるませて澤井に頼んだ。
澤井は「えっ、ああ……これ」と言いよどみつつ、男の右手に杖を渡した。澤井の手に、男の手がごく自然に触れた。
「あったかい手をされてますね。あなたは、優しい方なんでしょうね。おや?あなた、ピースをお吸いですか?」
男には、澤井の顔がぼんやりとしか見えないようだった。
「えっ……ええ、そ、そうですが」
澤井の顔から険しさが消え、ただ驚いていた。
「背広から、いい匂いがします。あれは、上等の葉っぱを使ってますよね。僕も学生の頃やんちゃをしてまして、よく吸いました。今はちょっと、体に良くないもんで……」
男は目をしばたたかせて、それとなく言った。そして、左手でハンチング帽を取ると「では、ごゆっくり。ありがとうございました」と一礼した。 真知子は、立ちつくしている澤井に頷くと、そっと男を玄関へ導いた。

「澤井ちゃん……いいんじゃねえか。それで」
澤井の肩越しに、宮部の丸い笑顔が見えた。
「あいつ、やっぱり武田でした。俺……何も言えなかった。あいつ、苦労したんだなって気がして。でも、名乗るべきだったかも」
ふうっと溜め息を吐いて、澤井は椅子に座り込んだ。
澤井の耳に周囲の音がようやく戻ると、目の前に、スッと灰皿が置かれた。
「何も言わない……だからさっき、あの人は、とっても幸せだったと思うよ」
澤井が目を上げると、真知子のやさしい眼差しとピースサインが揺れていた。
「……うん」と答えて、澤井はゆっくりとタバコに火を点けた。