Vol.70 さくらさくら

マチコの赤ちょうちん 第七〇話

都内で春一番が報じられたその日、夜の繁華街には、ゆるんだ風に誘われるようにサラリーマンたちが繰り出した。
マチコの赤い提灯も、どこかしら優しげに男たちを誘っていた。
しかし、常連客や顔見知りは暖簾をくぐった途端、ギョッとした面持ちで立ちすくみ、口ごもった。
玄関の正面テーブルには、身の丈が2メートル近くありそうないかめしい男が座り、客が入って来るたびに「ウィッ!」とゲップを洩らし、ギロリと睨みつけた。男の隣席には、どこかで折ったらしい桜の枝が置かれていて、その花の色が、酔いの回り始めた顔色に重なっていた。
カウンター席の松村や澤井も苦々しげな表情で「とっとと帰りゃいいのに」とぼやいたが、なにせ醜悪な面構えの巨漢だけに近寄ることをためらった。
「まったく……そろそろ、堪忍も限界ね!」
真知子は腕まくりすると男のテーブルへ歩き、伝票を取り上げた。
あっ!あっ!……と松村たちが目を丸くする中、「すみませんがね!御代はいいから、もう帰ってもらえませんか」と真知子が頭を下げた。
「……あ!?」と男は顔をゆがめ、ひと呼吸置いて、真知子を見下ろしながらのっそりと立ち上がった。天井へ届きそうな男の顔に、周囲の客たちの視線がいっせいに集まった。
「そうかい……この店は何かい、風体がイビツな客は追い出すってのか」
「そうじゃないですよ。でも、あなたの態度に、他のお客さんが迷惑してます。もっと言えば、営業妨害ですよ」
マチコの言葉は理路整然としていたが、その立ち居姿は、男の迫力を前にして、少したじろいでいた。
「何を言ってやがる。じゃあ、聞いてやるよ!おい、お客さんたちよ!あんたら、迷惑してるのかよ」
鼻息荒く、男が咆えた。水を打ったように店内は静まり、反論する客はいなかった。
「ほらみろ、誰も迷惑なんかじゃねえってよ。俺はまだいるから、伝票、置いといてもらおうか」
男のゴツイ腕が、真知子の白い手をつかみかけた。
ついに辛抱できなくなったのか「あの野郎!」と興奮する松村を、澤井が「よせ!」と制した。その時、サッと玄関から入って来た人影が、男の手首を捻り上げた。
「イテテッテ!何しやがる」
しゃがみこむ男の前で、真知子は唖然としていた。恰幅の良い背広姿の津田が、見たこともないほど険しい表情で男の腕を握っていた。
「ええ歳のオッサンが、何してねん。店の女将に手を上げるようなヤツなんぞ、客やないわい。それに、おまはん盗人やないか。桜の木は取ったらあかんのじゃ。ついでに、このまま1ヶ月ぐらい、臭い飯喰うてみるか!」
ドスのきいた啖呵に、津田は老練な刑事のように見えた。
「だ、だ、旦那。それだけは勘弁してくれ。俺が悪かったから、おっ、おとなしく帰るからさ」
突然、男は豹変し、いたずらを責められた子どものようにおじけづいた。
津田がしぶしぶ手をほどくと、男はあわてて財布から金を出そうとした。
その様子に、真知子と津田が顔を見合わせて「はぁ」と溜め息を吐いた。
「おまはんなぁ、そんな簡単に引き上げてどうすんねん。ちっとは、言い訳とかないんかい」
一瞬、津田の顔に優しげな笑みが覗いた。
「いや…あの…すみません。じゃあこれで、オツリはいいですから」
男は机に一万円札を置くと、巨体を揺すって桜の枝を持った。すると、津田の左手にあったステッキが男の手をビシッと弾いた。
「それは、置いて行き。ワシが、公園に植えといたるさかいに」
「いっ、いや……あの、これだけはどうしても」
男は酔いが醒めてしまったのか、顔色も落ち着いていた。
「ほお……その理由しだいでは、やっぱりブタ箱やな。まあ、こっちゃ来い」
津田はおいでおいでをして、カウンター席に男を座らせた。松村と澤井が、目で「おつかれさまです」と語っていた。
周囲の客たちは、固唾を飲むような顔で酒をすすり、ビールをなめていた。
「何で、桜がいるねん?」
津田が、タバコに火を点けて訊ねた。
「あの……俺の娘、さくらって言うんですね。3月の31日が誕生日で、その日は毎年、花見に行ってたんです。でも、去年、女房と別れちまって娘も付いて行っちまった。離婚しても、毎年の花見だけは一緒にって約束だったんですが、それも反故にされちまって……つい、この近くの公園で桜を見てて、やっちまった」
男は郷田と名乗った。話しが続くほどに、郷田の体躯はどんどん縮んでいくようだった。
「……そんで、持って帰って、観るんか。よけい寂しいで、郷田はん。第一、花盗人なんぞして、娘さんが喜ぶわけないやろ。ええ名前の子に対して、失礼や!」
津田はタバコを揉み消しながら、厳しく諭した。
ふいに、真知子が床に落ちている蕾を拾って、口ずさんだ。

さくら さくら やよいの空は 見わたすかぎり
かすみか雲か にほいぞ出ずる
いざや いざや 見にゆかむ
そのつややかな声に、津田はウンウンとうなずき、客たちが「ほぉ」とどよめいた。
「郷田さん…キレイな桜は、やっぱり外で見るものよ。お嬢さん、きっと待ってるわ。もう一度、別れた奥さんにお願いしてみない」

真知子が、そっと花びらを渡すと、鬼瓦のような郷田が目頭を潤ませた。
「さくらちゃんか……いい、名前だなあ。あ、ちなみに俺の息子も太郎って付けたんですよ。日本文化が好きな、俺らしい命名でしょ」
「あっ、そう!じゃあ、さくらさくらの二番目の歌詞、歌ってみてよ」
腕ぐんだ真知子が、いたずらっぽっく微笑んだ。
「げっ、いや、あの……ええ~い!さくら、さくら♪ カワイイさくら キレイなさくら♪」
開き直ってアドリブで歌い続ける松村に、客たちの大爆笑が起こった。
春の夜風がマチコの店先に桜の花を舞い上げ、郷田の笑い声も包みこんでいた。