Vol.83 ラーメン

マチコの赤ちょうちん 第八三話

通り沿いの公園に、冷んやりとした夜風がそよいでいる。梢のすき間からは丸い月が覗いて、ようやく秋の訪れを実感する頃になった。
明かりの下、鼻歌まじりで公園を抜けて来た松村が、マチコの格子戸を勢いよくガラリッ!と開けた。
「こんばんは~。いい月夜で、お燗酒がうまそうっすねえ~」と松村が意気揚々と入った途端、「うるさいオッチャンやな!」とカウンター席から可愛い大阪弁が飛んできた。
「オッ、オッチャンかよ」
不意打ちをくらったようにズッコケる松村を、客の男たちがクスリと笑った。すると「コケるの、ヘタやなあ」とまたもや同じ声がして、「ほんまやねぇ、ユリちゃん」とアクセントのずれた真知子の大阪弁も聞こえた。
「ユリちゃんって、だ、誰よ?」と、松村が声の聞こえたカウンター席を見た。
澤井や宮部の向こうに、小学2年生ぐらいのショートカットの女の子が、ジュースを飲みながら真知子に笑いかけていた。その横には、目を細める津田の姿もあった。
「あはっ、はは……子どもか。あの……ひょっとして、津田さんのお孫さんすか?」
松村が、ちょっと引きつり気味の表情で訊ねた。
「ふふん。どや、似てるか」
津田は、まんざらでもないという声でユリに顔を近づけた。しかし、今度は津田が「口臭いなあ。歯ぁ、ちゃんと磨いてや」とユリにやりこめられた。
「あはは、似てます、似てます! 口の悪いところなんて、ソックリ…あっ」
しまったとばかりに口を押さえる松村だったが、ユリはそれを見逃さず「けど、あんたみたいに、顔は悪うないで」と切り返した。
松村は顔を真っ赤にして、肩をいからせた。
「くっくく、くっそう~、津田さんの孫じゃなきゃ、引っ叩いてやるところだよ」
すると、ユリが椅子からストンと降り、平然として松村に歩み寄った。
「ほな、引っ叩いてみい。ウチは、このオッチャンの孫とちゃうで」
「えっ? あれっ、ちがうの?」
思わず津田を見返す松村の向こう脛を、ユリのスニーカーが蹴った。
「ぐお~、ぐぐぐ。ちっきしょう! もう、赦さねえ~」
しゃがみこんで歯ぎしりする松村を、澤井は「まあまあ、飲んで機嫌を直せよ」と慰めたが、その瞬間、松村はユリの体をさかさまにして抱え、彼女のジーパンの尻を右手でパシッと叩いた。
「ちょっと和也君! おとなげないわね。子どものしたことでしょ、我慢しなさいよ」と、真知子が声を高めてたしなめた。
一瞬、店内がしんと静まった中、ユリが口を開いた。
「……おっちゃん、もういっぺん、叩いてもええよ。おっちゃん、おとうちゃんと同じ叩き方や」
「え?……」と、松村はたじろいだ。真知子が「ユリちゃん……」と口ごもり、津田は宮部と顔を見合わせて、ふうっとため息をついた。
松村がゆっくりとユリを降ろして、「それって、どういうこと」と訊ねかけた。その時、「あっ、真知子のオバチャン、お母ちゃんが迎えに来たで!」とユリは松村の腕をすり抜けて、玄関の格子戸を開けた。
どこからか、チャルメラの音色が聞こえていた。その音は、少しずつ大きくなってマチコへ近づいて来た。
ユリの「お母ちゃん、お帰り~」と叫ぶ声を追って、真知子が玄関を出て行った。
「いったい、どうなってんだよ?」と腕組んでいる松村を、津田が手招いて「まあ、まずは一杯や」と盃を持たせた。
「あの子、わしとは何も関係ないねん。ちょっとワケありでな、真っちゃんが10日間ほど、夕方から今頃まで預かるらしいわ」
津田は、松村に徳利を傾けつつ、午後10時前になった柱時計を一瞥した。
「ユリちゃんは、今年の7月まで大阪で暮らしてたんだ。父親を交通事故で亡くしてさ。両親は大阪市内でラーメン店を構えていたんだけど、負債が残って商売も立ち行かなくなり、母親の実家があるこの町に、二人で越してきたそうだ。でも、食わなきゃいけないってことで、レンタルで軽トラックの屋台を借りて、お母さん一人でラーメン屋を始めたんだ」
そう言うと、澤井はタバコに火を点け、ゆっくりと煙を吐き出した。
揺れ昇る白い渦を見つめながら「ふーん……そうか」とつぶやく松村に、宮部が付け加えた。
「でも、実家の親戚やいとこに初めて会ったばかりで、まだ馴染めないらしいよ。ユリちゃん自身も、お母さんと一緒にいたいんだろう。今日偶然に、お昼にスーパーで買出しをしてた真知子さんが、テキパキと買い物を手伝うユリちゃんを見て感心し、お母さんとも知り合った。そこで家の事情を聞いちまって、ユリちゃんが実家に慣れるまでってことで、引き受けちゃった」
揺れる暖簾から見え隠れする真知子の着物姿に、松村がポツリと言った。
「なるほどね……真知子さんらしいや」
その言葉が聞こえないほどチャルメラが大きくなり、次の瞬間、ピタッと音が止まった。玄関からは真知子と母親らしき人物の和やかな会話に混じり、「ねえねえ!お母さん」と言うユリの嬉しそうな声が聞こえていた。
「俺、なんだか後味悪いなぁ」と、松村は右の掌を見つめていた。
すると、その背中をチョンチョンと誰かが突いた。松村が振り返ると、ユリが立っていた。
「おっちゃん。また、明日もここに来る?」
ユリが澄んだ瞳をくりくりと動かせて、訊いた。
「あっ、ああ、来るよ、うん来る」
松村がどぎまぎとして答えると、ユリはニッコリとして「よかった~。ほんなら、またオッチャンのおもしろないギャグ見れるし、ウチがツッコミするわ。ほんで、またおっちゃんにお尻叩かせてあげるわ」と胸を張った。
松村が、苦笑いして「毎度、おおきに~♪」と答えた。すると、ユリは松村の右手を握り「おっちゃんの手ぇ、おっきいなあ。お父ちゃんの手に似てるわ」と自分の左の掌を重ねた。

照れる松村に、津田が「うはは、怪我の功名やがな」と手を叩いて喜んだ。
その時、玄関から真知子の笑顔が覗いた。
「今夜はマチコのおごりで、皆さんにラーメンをご馳走しましょ」
マチコの玄関先で立ち昇る湯気が、ユリのはしゃぐ声と客たちの笑い声を温かく包んでいた。