Vol.90 流れ星

マチコの赤ちょうちん 第九〇話

丸裸になった公園のブナの枝が、時折吹く木枯らしにヒュルルーと声を上げていた。雲の去った夜空は冷たく澄みわたり、都心の明かりを受けて群青色のグラデーションを浮べている。
マチコ界隈の空気もピンと張りつめ、通りを横切っていた野良犬がブルルッと身を震わせた。
分厚いコートに首を縮めながら歩いて来た津田は、ようやく赤い提灯の前に辿り着くと、ほっと表情をゆるめて格子戸を開けた。
「ほんまに、毎日どえらい寒いなぁ。真っちゃん、風邪引いてへんか?」
暖簾をくぐりながら喋りかけた津田だったが、真知子からの返事はなかった。店内は閑散としていて、見回せばテーブル席には誰もおらず、カウンター席に一組のカップルが座っているだけだった。
男の方は椅子を2つも占領するほどの巨漢だったが、女性はスラリとした体型。娘の頃にはさぞかし可愛かったと思えるほど色白小顔で、まるで美女と野獣の2人だった。
すでに男の前には、二合徳利が6本置かれていた。
津田は一瞬言葉を失ったが、正気に戻るや「真知子さんは、どこ行きました? あきまへんなあ、お客さんほったらかして」と、自分を凝視しているカップルに愛想笑いを投げた。
「あ、あ、あの、あの……も、も、もう」
男が赤い顔でドモリながら、津田の1.5倍はあろうかという太鼓腹を波打たせた。
津田が「あ! もう帰って来ますか?」とほほえむと、「今、奥のお部屋に、膝にかける毛布を取りに行って下さってます……寒いからって」と女性が申し訳なさげに答え、ふっと自身の腹を見つめた。
女性の小さく盛り上がった腹に、思わず津田がほほえんだ。
「奥さん、オメデタですな」
「えっ……は、はい」
女性は一瞬顔をほころばせたが、隣でうつむいている男の横顔を一瞥するや、同じように顔を曇らせた。
落ち込んだようすに津田が口を開きかけた時、格子戸がガラリと開いて、松村が入って来た。
「あっ、津田さん来てたんすか? しかし、寒いっすねえ。それに、今夜はスゲエ空が澄んでて、さっき流れ星を見ちゃった! ラッキー!」
その声が聞こえるやいなや、巨漢の男は「な、な、流れ星!」と叫び、上機嫌でマフラーを外していた松村を突き飛ばして外へ走り出た。
「ぐわ!」と悲鳴を上げた松村は、マチコの上がり框まで飛ばされて倒れた。
「う、う~ん。痛ってえ~」
したたかに背中を打って唸る松村を、毛布を抱える真知子が見下ろしていた。
「和也君、どうしたの?」と不思議がる真知子の声をさえぎるように、カウンターにいた女性が「だ、だ、大丈夫ですか? お怪我は? すみません。ほんとにゴメンなさい」と松村に駆け寄り、平謝りをした。
「くっそ~! いったい何なんだよ、あいつは~」
ふらつきながら立ち上がった松村が、眉をしかめて玄関先を睨むと、男は夜空に向かって咆え続けていた。しかし、どの言葉もドモっていて、はっきりとは聞き取れなかった。
「……ぎょうさん、願い事があるみたいやな」
男の後姿に真知子と松村が唖然とする中、津田がポツリとつぶやいた。
「す、すみません……わ、私たち、もう、神頼みぐらいしか手立てがなくて。うっ、うう……」
泣き崩れそうになった女性をとっさに真知子が支え、「奥さん、しっかりして! 気をしっかり持たなきゃ、赤ちゃんに良くないわよ」と励ました。
松村と津田は夢中で流れ星を探している男を諌め、真知子は女性を小座敷席に横たわらせた。
「いったい何があったの?……いらした時から、何となく悲しそうな顔をしてたから、ちょっと気になってたの」
真知子は、涙で濡れた女性の前髪を指で優しく掻き上げてやった。
「……主人は、一昨年の春まで相撲取りだったんです。四股名は“流星号”でした。遅咲きでしたが、下位クラスで優勝して将来の希望が見えた時でした。稽古で、左足を複雑骨折しました。回復は芳しくなくて、結局、引退することになりました。主人の御贔屓筋の方々から『夫婦で、ちゃんこ鍋の店をやってみては』と支援して頂き、開店したのですが、口下手な性格からお客さんは一人減り、二人減りして……債務も増えてしまって、もうこれ以上、続けることはできない状態なんです。そんな時に妊娠して……子どもを諦めようと話し合って、この町の病院に行こうとしたんですが……私、やっぱり無理でした」
女性は気丈夫な性格らしく、唇を震わせながらも、言いよどむことなく真知子に打ち明けた。その上品な目鼻立ちが、育ちの良さを感じさせた。
「奥さん……赤ちゃん、生まなきゃダメよ。ご主人、あなたたちを立ち直らせてくれるのは、この赤ちゃんの命なのよ」
真知子はそっと女性の下腹部をなでながら、しおれている流星号にハッパをかけた。
「はっ!」と流星号が顔をもたげると、津田がその広い背中をバシッと叩いて言った。
「昔、あんさんが新米の頃に、大阪場所で見たことがある。ツッパリが得意で、いつも支度部屋の端っこで、鉄砲の練習ばっかりしてはったな。あの時、それだけではモノにならへんと思うてた。ほんでも、人の倍以上時間はかかったけど、勝ち上がって来た。その理由は、結婚を約束してた奥さんがおったからちゃうか? そやから今度は、この赤ちゃんのために勝ち上がるんや。この子は悪いタイミングにでけたんとちゃう。あんさんら夫婦に、もういっぺんチャンスを与えるために、生まれてきてくれるんや。それに、ちゃんこ屋で失敗しても、あんさんには、まだ得意技があるやないか」
その声に続いて、テーブルにドンと一升瓶が置かれた。
「流星号さんって、相当な日本酒好きだったじゃん。確か、相撲部屋でも1、2を争う酒豪で、地酒にも詳しいってことで有名だったよね。でさ、ものは相談なんだけど、この酒の蔵元さんが真知子さんの親友で、最近、酒造りの職人見習いを募集してるんだ。でも、けっこうキツイ仕事で、朝は早いし、力仕事もあるし、できれば無駄口を叩かない真面目な人がイイらしいんだ。ちょうど隣町にある酒蔵だし、考えてみても損はないと思うけどなあ」
松村が流星号の太い肩に肘を突きながら、笑顔の真知子と見つめ合った。

「あ、あなた……もう一度、この子のために頑張ろうよ」
「オッ、オッ、オス! お、女将さん、ごっつぁんです!」
妻の潤んだ瞳に、流星号の丸い顔が揺れていた。
「おっ! さすがに“ごっつあんです”だけは、すんなり言えまんなあ」
津田に冷やかされて、思わず流星号は赤面した。
5人の笑い声に包まれるマチコの小窓に、一筋の光が美しい尾を引いて流れて行った。