Vol.95 ピアノボーイ

マチコの赤ちょうちん 第九五話

春の陽だまりの暖かさを残した夜風が、散った桜の花びらを通りに転がしていた。
つい先日まで花冷えに身を縮めていた野良猫は、大きな伸びとあくびをして公園をのしのしと横切って行く。そんなようすを一瞥する男たちの足取りも、どこかしら軽やかに見える宵だった。
「遅えなあ、和也のヤツ。まったく、あいつの時間はアテになんねえな」
カウンター席で、初物の“菜の花のおひたし”を肴にしている澤井が、一人ごちた。
「そう言えば、テリー・ノエルのコンサートチケット、今夜持って来るんだったわね。またあの子のことだから、嬉しくって、どこかの店で見せびらかしてるんじゃない」
真知子が大吟醸の栓をポンッ!と抜いて、松村の手にする冷酒グラスに瓶を傾けた。
その酒がグラスにすり切れいっぱい注がれた時、「お待たせしやした~!」と背後から声が飛んで来た。
「あわわわっ!」
澤井がこぼれかけた酒を口で迎え、真知子は「ほんと、あんたは“呼ぶより、そしれね”」と苦笑した。
「へ? それって何よ?」
キョトンとする松村に、澤井が「いいんだよ、もう! それよりテリーのチケット、早く出せよ」
酒で濡れた手をおしぼりで拭きながら、澤井がせかした。その動きにも、澤井のコンサートへの期待度が現れているようだった。
「せっつかない、せっかない。何せ、僕だからこそコネで取れたアリーナ席なんだから。今回を逃したら、テリー・ノエルは10年は来日しないんじゃないかって噂だし。澤井さん、感謝してよね!」
それを聞いていた周囲の客たちは、松村が誇らしげに内ポケットからチケットを取り出すと、「ほう~、いいねえ」「ヒュー! やるじゃん」と羨ましがった。
澤井が「ちっ、もったいつけんじゃねえよ。第一、お前と一緒じゃないとダメってのが、気にいらねえんだよ」と、その袋をむしり取った。
ところが、チケット袋は澤井の手から抜けて、カウンターの端っこに座っていた長髪の男の足元に落ちた。
松村が「あっ、すみません。ちょっと澤井さん、気をつけてよ!」と叫んだ。
男の前には空っぽの二合徳利が4本も転がっていて、酔っているのか、チケットに気づくようすはなかった。
松村は軽い会釈をして男に近づくと、チケット袋に手を伸ばした。そのとたん、男のスニーカーが袋をグシャリと踏みにじった。
「うわっ、な、な、何すんだよ!」
唖然として松村が声を響かせると、真知子や澤井も「ちょっと!」「おい!」と叫んで、男を凝視した。
「な~にが、テリー・ノエルだ。バッカ野郎~。俺を、だ、誰だと、思ってやがる。あんなヘタなピアノなんて、ニセモノだあ! 何がアリーナ席だ」
やさぐれたように体をふらつかせる男は、チケット袋を左手で拾い上げた。そして「ふうっ」と酔った息を吐くと、「あっ、やっ、やめろー」と叫ぶ松村をニヤリと笑い、両手で真っ二つに破ろうとした。
「お客はん、困りまんなあ。そんなオイタをしたら、とっとと出てってもらいまっせ!」
男の右手首が、ごつい指にムンズと握られていた。
「この、くそオヤジ! 放せ、放しやがれ!」
もがく男の後ろに、津田の髭面がデンとかまえていた。
「ナイスタイミングです、津田さん。おい、あんた! 謝れよ」
津田の顔にほっとした澤井は、男の左拳をほどいてチケット袋を取り上げた。
「けっ、な、何で俺が、謝んなきゃならねえんだよう。おっ、お前が、俺のとこに、チ、チ、チケット落としたのが、悪いんじゃねえかよ」
「言わせておけば、この野郎!」
男の言い草に、顔を真っ赤にした松村が胸ぐらを掴んだその時、「ごめんなさい。あっ、あの、ウチの主人さんです。すみません、どうか許して下さい。お願いします!」と小柄な女性が玄関から飛び込んで来た。
二転三転する騒動に、すでに客たちは騒然として、腰を上げようとしている席もあった。
「真っちゃん。このご夫婦は、奥の座敷へご案内や。和也君も澤井ちゃんも、いっしょにおいでや」
津田は機敏に判断すると、男の手を放し、妻ともども座敷へうながした。
鼻をすすりあげる妻の横で、男は壁を見つめたまま黙座していた。
開き直ったような男の態度に、松村が「おい、いいかげんに……」と言いかけた時、津田の言葉がそれを制した。
「あんさん……細うて、長い指やなあ。ピアノ弾き、やったやろ。けど、その右手首から先、もう動かへんねんな。怪我でもしたんか?」
津田の言葉にカッと男が目を開き、唇をブルブル震わせた。妻はワッと泣き崩れたが、横に座った真知子がその背中をいたわるようにさすった。
「ど、どういうことですか? 津田さん」
澤井が訊ねると、津田はタバコに火を点け、一服してから口を開いた。
「さっきワシが右手を捻り上げた時、顔色ひとつ変えへんかった。普通なら、顔をしかめるぐらい痛いはずやった。おかしいなと思うたさかい、手を離す前に、もういっぺん手首の急所を握ったけど、涼しい顔をしとった……それは、神経が通うてないからや」
右手に全員の視線が注がれると、男は「くっ!」と声を洩らして、膳の下に隠した。
「それで……徳利も盃も、左手側に置いてあったのね」
真知子が思い出したように言うと、妻がポツリとつぶやいた。
「右手さえ怪我をしなければ、主人は、日本一に……5年前テリー・ノエルのコンサート会場で、興奮したお客さんに押されて、アリーナで将棋倒しになって、それで……あんなに、テリーの弾く“ピアノボーイ”が大好きだったのに……」
「うるさい! お前は黙ってろ! おい、オヤジ。いつまでこんなくだらない席に座らせてんだよ。謝れってえのなら、いくらでも謝ってやるよ。ほら、これでいいんだろ、ほら、ほら! 俺たちは、もう帰るぜ」
男はムキになって、額を何度も畳にすりつけた。
「その事故……憶えてるよ。あんた、見城 光さんでしょ。昔、国際ジャズコンテストでも、有望視されてましたよね。“ピアノボーイ”が演奏された時、最前列近くの100人ぐらいが大けがをして、コンサートは中止になった。売れっ子の芸能人とかも、巻き添えを食ってた。あの時、俺は2階席だったんです」
澤井の言葉に、一瞬、その場が静まった。
見城は頭をもたげると、何かを思い出すかのようにしばし天井を見上げ、「もう、俺の腕は、腐っちまったんだよ」とつぶやいた。
「……いいや、腐りかけてんのは、あんさんの心や」
津田が語気を強め、タバコを灰皿に捻りつぶした。
「そうね……きつい言い方だけど、ピアノは両手でなきゃ弾けないもの? 私は、そうは思わない。スポーツだって芸術だって、ハンデを背負いながら復活して、自分だけじゃなくて、たくさんの人を幸せにしている人がいるわ。もちろん、並大抵の努力じゃない。だけど、あなたはどうかしら。ただ、何もせず、人生を恨んでばかり。音楽は、どんな人だって、幸せにしてあげることができるものでしょ。それを、自分は不幸だとばかり思っている人に、弾けるはずないわ。あなたは、逃げているだけよ」
「くっ! くくっ!」
見城は、口惜しさのあまりか膝の上で左拳を握りしめたが、右手はダラリとしたままだった。
「あなた……もう一度、弾いてみようよ」
左拳を、見城の妻が優しく包んだ。
それを見た澤井が、松村にチケット袋を振って「おい……いいよな」と言った。
松村が「うん、覚悟してましたよ」と笑うと、澤井が見城の前にそれを差し出した。
「えっ……こ、これは」
声を震わせる見城の横で、真知子と津田が、涙ぐむ妻にウンウンと頷いていた。

「見城さん……今回のチケット、テリーからのメッセージが書いてあるんです。それは、あなたに、贈られたものじゃないかな」
松村の言葉に、見城がゆっくりとチケットを開いた。

- 5年前、私が不幸にした愛する友たちへ、私のすべてを捧る -

いつしか店内には、客たちが口ずさむ“ピアノボーイ”が聞こえていた。
そのメロディーに合わせて、見城の左手がゆっくりと踊り始めていた。