Vol.96 カタクチ鰯

マチコの赤ちょうちん 第九六話

公園に芽吹き始めた木々が、夜になると息づくせいか、マチコの店先にも新緑の匂いがただよっている。
昼のぬくもりを残す通りをやって来た松村は、鼻先をクンクンさせて立ち止まると「おっ、可愛い。春だねえ」とつぶやき、公園の植え込みにしゃがみこんだ。
たくさんの三色すみれが、鮮やかな色彩を描いていた。
「一つだけ、マチコにおくれよ……ゴメンね」
松村は両手を合わせ、足元に咲いていたオレンジ色の花を取った。
持って行けば、まずは植え込みの花を抜いたことをとがめられるだろうなと思ったが、その後、「しょうがないわね」とほほ笑み、一輪挿しに活ける真知子が見たかった。三色すみれは、真知子が大好きな花だった。
そんなシーンを期待しつつ、松村は三色すみれを後ろ手にしてガラリと格子戸を開けた。
店は案外と静かで、カウンターには真知子の笑顔と黒髪が美しい女性客の後ろ姿があった。
女性と話す真知子が「いらっしゃい」と短く発すると、松村はカウンター席の端に座りながら「これ、公園に咲いてたんだ」と遠慮気味に右手を差し出した。
「oh! パンジー!」
意外な大声を発したのは、真知子ではなく、女性客だった。
大きな黒い瞳を開いた彫りの深い顔。高くて細い鼻筋は、ラテン系のものに思えた。
女性は、口をポカンと開けている松村の横にドンと座るや、右手をぐいっと引き寄せて、三色すみれの匂いをかいだ。女性は少し酔っているのか、頬と耳がほんのりと赤らんでいた。
「えっ、えっ」
どぎまぎとする松村を、真知子はクスッと笑いながらも、感心するように言った。
「今、まさに、その花の話しをしていたところなの。三色すみれは、マリアさんの国・スペインでも春にいっぱい咲くそうよ。ちょっと国のことを思い出して、センチメンタルになってたみたい……そしたら、和也君が登場したの。何だか、タイミング良すぎるわね」
何となく事情が分かってきた松村に、マリアは「はじめまして、マリア・ロペスです。どぞ、よろしく」と両手をカウンターにそろえて、コクリとおじぎした。
松村が照れ臭そうに会釈を返した時、玄関から「おっ、和也君、ベッピンさんを独り占めはさせへんでぇ」と太い声がした。
津田がハンチング帽を脱いで、マリアにチョコリと会釈していた。
マリアは津田に「ども、こんばんは」と挨拶すると、冷酒グラスをぐいっと飲み干して、「パンジーのお礼に、一杯どぞ!」と松村に渡した。
酒を注ぎながら真知子がマリアのことを紹介すると、津田や回りの客たちも耳を傾けた。
28歳のマリアは、スペインでは若手女性カメラマンとして売れ始めていた。
大学時代から日本に憧れ、日本語も学んでいた。今回、自国の出版社から、日本の有名な景観地ではなく、東京や大阪の下町とか地方の田園風景、自然環境を特集する取材を依頼され、その下見のために初来日したのだった。今日の昼下がり、マチコの通りに残る手押しポンプの井戸や古い路地裏を散策中、通りがかった真知子にマリアが道を尋ねた。
道案内するうち、事情を知った真知子が、それなら「店のお客さんからいろいろなネタが聴けるかも」とマチコへ招待したのだった
「彼女、日本へ来て2週間になるそうよ。事前にスペインでいろいろな情報を集めたらしいけど、まだ充分な下見ができてないの。ラテン系だから気丈夫に見えるけど、けっこうカルチャー・ショックを受けてるみたいで、あまりしゃべらないわ。それに、地方の隠れた情報なんて分からないじゃない。和也君、その世界のプロでしょ。何とかならないかしら?」
真知子の言葉をほぼ理解しているのか、マリアはそれを聞きながら、しだいに遠い目をしながら頬杖をついた。
「しかし、日本のコーディネーターもなしにロケハンなんて、無茶するなあ。とは言っても、本格的にリサーチやると、ギャラが必要だしねぇ……この場でお客さんに、いろいろとネタをもらってみる?」
松村がそう言うや、客席からは「あるある! 四国の山の中で、何百年も前からお遍路さんを接待する民家って、どう?」だの「有明海のガタスキー。ムツゴロウって魚を獲ったり、伝統文化的でイイんじゃないかな」と、郷土色豊かな情報が飛び出した。
マリアは、男たちにニコリと笑顔を返したが、ふと、どこか疲れたような表情を覗かせていた。
黙ってタバコをくゆらせマリアの横顔を見つめていた津田が、口を開いた。
「真っちゃん、イワシあるか?」
「えっ? イワシって、あの魚の鰯? カタクチ鰯なら、今朝買ったばかりだけど」
けげんな顔で、真知子が答えた。
「上出来や。それと、ニンニクと酢とオリーブオイルやな」
津田はそう言って立ち上がると、松村や客たち、そしてマリアもきょとんとする前で、上着を脱いで厨房に入った。
そして、厨房でトントンと包丁の音を響かせるや、手早く料理をした皿をマリアの前に置いた。
とたんにマリアが、「oh! サーディン&ビネガー。私の国の料理!」と一変した笑顔で、嬉々として叫んだ。開かれた鰯の身は、たっぷりのオリーブオイルと酢に漬かり、パセリとニンニクがふりかけてあった。
「今のマリアさんに必要なのは、まず、気持ちのエネルギーや。さっきのみなさんからの親切心に、どうにか答えようとしても、精神的にまいってて体がついてこんのや。なんぼ日本が憧れの国やっても、緊張感や言葉の不安からだんだん疲れてくる。それを元に戻すには、やっぱりお国の食べ物や。ほれ、ワシらかて、外国旅行したらお茶漬けが食べとうなるやろ。スペインの人にとってオリーブオイルは、日本人の醤油みたいなもんや。それに鰯は、どっちゃの国でも庶民の食べ物。ふだんのマリアさんに、戻れるはずや」
津田が語る間、マリアは脇目も振らず、礼の言葉も忘れて、鰯を食べた。そして、ひと息つくと、その高い鼻先を赤くして、黒曜石のような目を潤ませた。
「あ、あ、ありがと……ござます」
オリーブオイルにマリアの涙が、波紋を作った。
しんみりとする店内に、松村の声が響いた。
「カタクチ鰯だけど、マリアさんの口は柔らかくなってよね~♪ な~んてね! あはは……は」

真知子が「まったく……スベッたわね」とツッコむと、客席からは「あ~ぁ」とつぶやきが洩れた。
しかし次の瞬間、マリアは松村の首に腕をからめ、みんなの前で頬にキスをした。
「しもた~! わしが先に言うとくべきやった」
津田の言葉に、爆笑が巻き起こった。
そこには、マリアの屈託のない笑い声も混じっていた。