Vol.97 各駅停車

マチコの赤ちょうちん 第九七話

五月晴れの青空に、綿菓子のような白い雲が浮かんでいた。
静かな日曜日の通りはポカポカとぬくもって、マチコの軒先で戯れる雀のさえずりも嬉しそうに聞こえた。
そんな春の陽だまりの中を、大きな影がノシノシと歩いて来る。
サングラスをかけた顔はもっさりとした髭に包まれ、足元は山登りのトレッキング靴で固めていた。背負った大きなリュックは今にもはちきれそうだった。
男はマチコの玄関にたどり着くとふうっと息を吐いて、太い首に掛けている手拭いで額の汗をぬぐった。
「やっぱ、久々に担ぐと重てえな」
男はそうつぶやいてリュックを下ろすと、サングラスを外して顔一面もふいた。その時、マチコの格子戸がガラッと開いて、松村がニュッと顔を出した。
「遅っせえなあ……うん?」
誰かを待っているらしい松村が、けげんな表情で髭男を見返した。
「あっ! 和也さん、お久しぶりっす!」
髭男の笑い顔に、松村が「お前、塚田かよ。マジかよ!」と口をアングリ開いた。
むさくるしい格好をした目の前の男は、奥飛騨で茅葺き職人になった塚田哲也だった。
しばらく見ない間に腰はひと回り大きくなり、肩の筋肉も盛り上がっている。
驚く声に誘われたのか、津田、澤井、宮部がぞろぞろと玄関に現れた。
「どこのオッサンかと思うがな。昔の塚田君とは、まったく別人やな」
「おう! 元気そうだなあ。お前、水くせえぞ。もっと早く教えろよ」
「このたびは、おめでとう! しかし驚いたよ。もう子どもさんができるとはね」
ガテンな茅葺き職人として3年目を迎えた塚田は、この6月に学生時代から恋愛している内田江津子との間に子どもが誕生する。
一時は愛媛の総合病院の院長である江津子の父に仲を裂かれたが、失意から立ち直った津田は都会暮らしを捨て、自然と田舎を愛する職人の道を選んだ。
そして一年半が過ぎた頃、江津子の父が逝去。継母との確執に悩む江津子は家を飛び出し、奥飛騨の塚田のもとへ走ったのだった。
先週、突然の塚田からの電話で、真知子は江津子のおめでたを知った。
しばらく塚田が東京に滞在していると聞き、それなら奥飛騨へ帰る前にみんなで前祝いをしようと、休日の昼に席を設けたのだった。
「まったく、一緒に暮らすまではヤキモキさせられっぱなしだったのに、なってしまえば、やることは早いんだもん。驚きだわ」
店先へ登場した真知子が、あきれ顔で冷やかした。
「まあ、奥飛騨の山奥で新婚生活しとったら、それしか楽しみはないわ」と津田がニンマリとして言った。
「はい、もう飛騨の猿みたいなもんです~」
塚田が臆面もなく切り替えすと、みんなドッと笑いながら店内へ入った。
テーブルには料理と酒がたっぷりと揃えられ、美味しそうな匂いが漂っている。
「うほぅ、久々のマチコさんの手料理だぁ~♪」と塚田が目を輝かせると6人は「再会とジュニアの誕生を祝して乾杯!」と盃を合わせた。
塚田はこれまでの修行の日々、茅葺き家に暮らす農家の人との交流、江津子と一緒に独り住まいの高齢者の家を回って、話し相手になっていることなどを嬉々として語った。
酔って赤らんできた塚田の男臭い相貌を、津田はタバコを燻らせながら嬉しげに見つめている。
澤井と宮部は、素朴な飛騨の話にへえ~、ふ~んと感心しきりだった。
その横で酔ったふりして塚田の髭を引っ張る松村を、マチコが「ほんと、あんたは成長しないわね。一度、飛騨で修行してみたら?」とたしなめた。
かつてコンビニで働きながら都会生活に埋もれていた塚田の面影はなく、日焼けたその横顔が山里の匂いを感じさせた。
ひとしきり時が過ぎて、柱時計が午後7時を打った。
「……さてと、そろそろ俺は失礼しようかな。明日、早出なんだ。悪いな、塚田ちゃん。奥さんによろしくな! 生まれたら、ちゃんと連絡しろよ」
澤井が塚田とぐっと握手すると、真知子が言葉を付け足した。
「塚田君はゆっくりしてってね。うちは、まだかまわないわよ。料理も肴もこんなに残ってるんだし」
ウンウン!と大きく頷く松村に、澤井は「お前に言ってんじゃねえんだよ」と釘を刺して、立ち上がった。
「ところで、塚田君はいつまで東京にいてんねん? 江津子さん、心細いのんとちゃうか?」と津田が訊ねた。
「いいえ、もうすっかり飛騨に慣れちゃって。近所の人たちが大きくなる腹を見に来たりするもんで、それなりに賑やかです。最近は過疎化と高齢化で、地元の人たちにとっても子どもの誕生は嬉しいみたいですね。実は、今夜の夜行列車・銀河に乗って、明朝、岐阜から各駅停車を乗り継いで、昼には奥飛騨へ帰る予定なんですよ」
塚田は、赤い目でリュックを指して言った。 「へぇ~、えらく時間がかかるんだね? それなら明日、新幹線で岐阜まで行って、乗り継ぐ方が楽なんじゃないの?」
宮部が、重そうなリュックに目を白黒させながら訊いた。
「途中で、逢いたい女性がいるんですよ」
塚田のその声に真知子が「えっ?」と驚き、「おいおい、そりゃ聞き捨てならねえな」と澤井がまた座席に腰を下ろした。
「この野郎、さっさと白状しな! 江津子には黙っててやるからよ」
ふざけて塚田の首を締め上げる松村の頭を、津田が「あほ! じっとしとらんかい」と叩いた。
「あっはは、ちがうんですよ。江津子が奥飛騨に来てから、いろいろと世話になってる地元のおばさんたちなんです。みんな、岐阜のあちこちの駅で働いてるんです。立ち食いそば屋さん、売店、清掃婦といろいろなんですけど、とってもいい人ばかりで。僕、日頃合えないので、せっかくだから東京土産を持ってゆっくり駅を回りながら帰るつもりなんです」
女性たちは、3年前に塚田が東京から移り住んだ時、あれこれとおかずの差し入れなどをしてくれた。そして、江津子が塚田の暮らす古民家に同居するや、頻繁に顔を覗かせて、なにくれとなく世話を焼いてくれていた。
当時、家族との確執に渇いていた江津子の心は、日ごとに潤いを取り戻していった。それは自然と人と心を大切にする奥飛騨のお蔭だと、塚田はしんみりと語った。
「各駅停車か……あんたの人生に、似合うてるわ。これからも、ゆっくりじっくりで、ええのちゃうか」
津田が燗冷めした徳利を、塚田の盃に傾けた。
「はい……そのつもりです。特急電車は僕に合わない、それに乗ると大切なものが見えなくなることが分かったんです」
ゆっくり塚田が盃を干すと、澤井が頬杖を突いて「ふ~ん、大切なものって何?」と訊いた。
「窓の外のありのままの景色なんです。早過ぎちゃ見落すし、駅を飛ばすと出逢えない。人との関係も同じかなって思うんです。僕はいろんな人と一人ずつ顔を合わせて、ゆっくり話をしたい。これからも、各駅停車の人生のレールを敷いていこうと思います」
塚田の答えに津田と宮部がほほ笑むと、澤井が「じゃあ、ゆっくり行くかぁ」と、もう一度盃を手にした。

「ねえ……今から、この料理を詰めたお弁当作ってあげる。東京に一つしかない、各駅停車用の駅弁よ」
その声に塚田が「うひょう、超ラッキ~!」と手を叩くと、酔った松村が口を尖らせた。
「あ~、いいなあ。俺も、各駅停車乗りてえよ」
「う~ん、乗ってもええけど、あんさんの頭はずっと停車したまんまやからなぁ」
朗らかな笑い声が、ゆったり、のんびりと春の夜に流れていた。