Vol.115 馬上盃

ポンバル太郎 第一一五話

 早い梅雨入りを予感させる黒南風が、湘南や伊豆の海にシケを呼んだ五月末。東京にも嵐のような雨風が吹きつけ、おりしも催されていた日本ダービーは大荒れに荒れた。

 最終コーナでは立て続けに落馬が起こり、トップに入ったのはすでに翳りの見えた三十七歳のベテラン騎手だった。東京競馬場の観客は配当金だけでなく、若い人気騎手たちの安否にどよめいた。

 週明けのポンバル太郎でも、年配の競馬ツウらしい客が「とんでもない万馬券じゃねかよ」とぼやいている。
「まったくよう。馬の脚を止めさせるほどの突風なんて、聞いたことがねえぜ。JRAは、天気予報を見てなかったのかよぉ」

 馬券を外してヤケ酒をあおる火野銀平に、平 仁兵衛が申し訳なさげにぬる燗の純米酒を酌した。
「今年の天候は尋常ならざる気配ですなぁ。いつ、台風や竜巻が起きてもおかしくないそうですよ。まあ、銀平さんには悪いですが、ど素人の私は偶然買った馬券で小遣いかせぎができました」

 平の言葉に、銀平だけでなくテーブル席で渋い顔をしていた客たちも驚いた。確かに、予想だにしない馬が日本ダービーを制しただけに、太郎は平の的中に厨房から声を投げた。
「偶然って……平先生、博打はやらない主義じゃねえですか? いったい、どうしたんです?」
「いや、いささかワケありでしてねぇ。そろそろ、やって来ますかな」

 玄関を振り返る平の右手は、手提げ鞄の中をまさぐっている。

 それを覗き込んだ銀平の目が酒脱な高盃に止まった時、入口の鳴子が響いて小柄な男が現れた。背丈は160㎝にも足らず、華奢な体形だった。
「うん? どこかで見たような……あっ、昨日のダービーで優勝した平 勇太 騎手じゃねえかよ。ま、待てよ。平って、まさか!」

 銀平の声が途切れると、テーブル席やカウンターの客たちは総立ちになって勇太を見つめた。勇太は気恥ずかしさよりも、後ろめたさを抱え込むように、客たちへ黙ってお辞儀をした。
「私の甥っ子です。馬券を買ったのは、そういうワケです。まあ、座りなさい……どうであれ、昨日の勝ちは勝ちだ。約束の馬上盃を渡しましょう」

 平は周囲の目をはばからず甥の勇太を隣に座らせ、目の前に珍しい高盃を置いた。

 銀平の口から、ため息が洩れた。客たちは象嵌を散りばめたような青や赤の柄に見惚れ、勇太のタナボタ勝利をそしることも忘れていた。

 馬上盃とは、かつて武将たちが戦場へ出向く鞍の上で酒を飲んだ盃である。手綱を握りながらあおるため、こぼれないように高い脚と深い器をしつらえている。中でも、越後を疾駆した戦国大名の上杉謙信が愛用したことで知られている。

 騎手である勇太には格好の盃で、平が甥の勝利に贈るのだろうと太郎は察した。
「叔父さん……不本意な勝ち方なので、これは頂けません。やっぱり俺、引退しようと思います」

 勇太の言葉に、馬上盃にお銚子を傾けようとした平の手が止まった。太郎には、いつになく平の目尻のしわが逆立って見えた。
「昨日、お前は戦う前から負けていた。やはり、昔の古傷がシコリになっていたようですね」

 語気を強めた平に、銀平がはっとしてつぶやいた。
「確か、勇太さん……二度、馬の脚を折る落馬事故をやってるよな」

 競馬ツウの客たちがそれを無言で斟酌すると、勇太は開き直るかのように言った。昨日優勝した騎手とは思えないほど、青ざめた顔だった。
「俺は馬を潰しちまう、呪われた男なんです。もう手綱に力が入らないんだよ。昨日のダービーは、再起できるかどうかの賭けだった……漁夫の利で優勝はしたけれど、馬に鞭を入れる手が動かなかった。この馬上盃の脚だって、折っちまいそうだよ」

 勇太は馬上盃を手に取ろうともせず、目をそむけた。
「情けない人ですねえ。馬上盃を愛した、上杉謙信が泣いてますよ。謙信は愛馬を失くしながらも、武田信玄と川中島で五度も戦っているんです。これしきで諦めるとは、お前のせいで消えて行った馬に申し訳ないと思いませんか」

 極端な平のたとえ話だったが、誰も苦笑しなかった。それほど、今夜は競馬好きな男たちが多いのだと太郎は感じた。

 押し黙っている勇太へ、太郎が口を開いた。
「勇太さん。本当の勝利の美酒が飲めるまで、この馬上盃はうちで預かっておくよ。確かに、あんたの腕前はもう潮時かも知れねえ。だけど、自分に負けっぱなしじゃあ、一生、馬上盃は似合わねえよ」
「負けっぱなし……確かに、そうだな」

 背中に突き刺さるような視線に、勇太は店内を見回した。居並ぶ客たちを代表するかのように、銀平が勇太へ馬上盃を手渡した。
「勇太さん。あんたデビューした頃は図抜けた速さで、駆け引きもダントツだったじゃねえか。それをもう一度、磨いてみなよ。俺たちだって、もう若くはねえけどよ。自分を奮い立たせて、日々、頑張ってんだ。だからよう、次の戦いの表彰台で、その馬上盃をあおって見せてくれよ!」

 銀平が叱咤激励すると、いっせいに男たちから拍手が巻き起こった。

 勇太の顔は真っ赤に火照り、目頭を潤ませた。客たちは、それぞれがどん底から這い上がった頃を勇太へ重ね、励まそうと思った。

「ほう、お前の人気も、あながち捨てたもんじゃないですねぇ……謙信は歳とともに、自分を奮い立たせるためにも馬上で酒を飲んだそうです。そして、威厳ある酔い姿を家来に見せ、威勢を上げさせた。お前もそろそろ自分だけの夢にしがみつかず、若い騎手たちへ教えることがいろいろあるでしょう。失敗も成功も、後進たちのいい薬になるもんです。そのためにも、必ず有終の美を飾りなさい。これは、その景気づけの酒です」
 平は太郎へ目で感謝し、勇太が手にする馬上盃にお銚子を傾けた。そして川中島の一節「鞭聲粛々、夜河を過る」を気持ちよさげに謳い始めた。
 思いがけない平ののど自慢に、押し黙っていた客たちが盛り上がった。
「次は大穴狙いで、大丈夫だ!」
「よ~し! ダービーの倍返しだぜ!」
 浪々と流れる平の詩吟に、馬上盃の酒が答えるかのように揺れていた。