Vol.130 かわせみ

ポンバル太郎 第一三〇話

 彼岸の訪れとともに、東京タワーの彼方を茜色に染める夕陽が幾分早くなっている。

 デパ地下の食品売り場には秋の味覚が並び、国産松茸や初物サンマの高値に飽きれ顔だった。

 売り場取材の帰りにポンバル太郎へ寄った高野あすかも、げんなりして愚痴った。その秋らしいワンピースと黒髪へ、隣りに座る中之島哲男が目尻をほころばせている。
「アフリカのモロッコ産やスウェーデン産の安い松茸の風味って、どうなんだろ! でも、太郎さん。いくら頂き物だからって、このお値段で国産松茸を惜しげもなく出しちゃって、いいんですか?」

 壁に貼られたメニューに、あすかは目を見開いた。テーブル席の客たちも「一皿800円って、マジかよ? 食わなきゃ損だぜ」と唾を呑み込んだ。

 苦笑いする太郎が包丁で切れ目を入れているのは、兵庫県丹波産の上物だ。それをあすかが口にできるのは、中之島の手土産だからである。
「まったく年々、天候がおかしゅうなって、丹波の松茸山も収穫がまちまちや。今年は猛暑と大雨が繰り返したせいで山の状態が良かったんか、収穫は上々みたいやな」

 裂かれた松茸の匂いに、濃紺の作務衣をまとった中之島があぐら鼻をひくつかせた。ぬる燗の盃を持つ右手は、焼き松茸ができ上がるのを待っている。

 広がる濃厚な芳しさに、カウンターの端っこに座る若い男が頭をもたげた。やって来てから半時間になるが、静かに盃をなめては、陳列ケースの松茸を眺めながら左手のペンを動かしていた。

 目尻をほころばせる男に、中之島が声をかけた。
「お客さん、よかったら一緒にいかがでっか? わしは、中之島と申します」

 あすかは手にする冷酒グラスを止めて、中之島の顔を見入った。普段の中之島は、見ず知らずの若者へそんな気遣いはしない。

 あすかの反応を読んでいたかのように、中之島は男にほほ笑んだ。
「あんた、前にもその席に座って、手帳へ肴の絵をスケッチしてはりましたな……けど、旬のうまい物が目の前にある時は、誰かとしゃべりながら飲むのも、ええもんでっせ」

 中之島の口ぶりは、押しつけがましくなかった。あすかには、師匠が久しぶりに逢った教え子へ語っているかのように思えた。

 戸惑っている男の前へ、太郎が仕上がった焼き松茸をお裾分けした。
「あなたのイラスト、中之島さんの店に飾っている絵にどこか似てるんですよ。ちょいと盗み見しちまって、すみません」

 太郎の詫びに男がはっと顔色を変えて、中之島を見返した。
「あっ、あのう……私、山口 清太郎と言います。中之島さんは、関西の方ですよね……私はフリーのイラストレーターで、作品をネット販売しています。ここ数カ月、大阪で買ってくださるお客様が増えてるんですが、『割烹 中之島さんの紹介で』というレビューがいくつかあるんです。ひょっとして、それはあなたじゃ?」

 前のめりになった山口の視線が、あすかは眼中にないかのように中之島へ刺さっている。だが、中之島は素知らぬ顔で、焼き上がった松茸をうまそうに頬張った。

 眉根を寄せるあすかが二人の顔を見比べると、太郎が口を開いた。
「だけど、中之島の師匠。大阪にある鷹のイラストは、ずいぶん昔から店に飾ってるでしょ? あれ、山口さんの作品ですか?」

 “鷹”の語句に、山口の顔がこわばった。
「ほう、太郎ちゃん、よう憶えとるな。けど、あれはちゃう……同じ山口でも、忠太郎の作品や」

 ひと息置いた中之島の答えに、清太郎の腰が椅子を激しく後ろへ弾いた。唖然としているあすかの横で中之島は「まあ、座りなはれ」とつぶやき、言葉を続けた。
「忠太郎さんは、あんたのお兄さんやろ……以前に、あんたのスケッチの描き方を目にした時、わしはあんまり似てるもんで驚いた。それで、インターネットで調べて、あんさんのイラストを知った。十年前、忠太郎さんが新進気鋭のイラストレーターと評判になったのが二十八歳の時、ちょうど今の清太郎さんぐらいやな。東京から仕事で大阪に来るたび、わしの店で一杯やってはった。面影だけやのうて、飲み方もあんたとよう似てるわ」

 兄の忠太郎も、清太郎と同じで独酌を好んだ。したたかに酔っても毒舌を巻くしたてることはなく、こらえ性のせいか、飲み過ぎる人だった。忠太郎はようやく人気が出た矢先に胃癌が見つかり、その半年後、他界したが、店ではおくびにも出さず飄々として盃をあおっていたと中之島は懐かしんだ。

 中之島は、おもむろに懐から金子入れを取り出した。帯紐で巻いた帆布こしらえの財布で、そこから古びた紙切れを取り出した。
「忠太郎さんがわしの店に来た最期の日。描き残したのが、このスケッチや。わしは、後生大事に持っとくつもりやった。あんたの兄さんは癌のことなんぞこれっぽっちも言わず、たった一人の弟のことを気にしてはった。絵のセンスは繊細で上手やけど、アピールするのが下手。いまだにイラストで食っていく腹が据わってないから、自分のように必死で売り込まない。姿はキレイやけど、人前に出たがらない小心者の“かわせみ”みたいな奴と腐しとった。けど、本音は心配してはったんやろな」

 しわを伸ばした和紙の中に、一羽のかわせみがスケッチされていた。独特の青やオレンジの体色は、まだ塗られていなかった。
「かわせみ……いつも兄貴から、そうなじられてました。躍動する鳥や動物を描くことで売れた兄貴と静物しか描かない僕は、対照的でした。もっと貪欲にいろいろ描いて売り込めと、ハッパをかけられてばかりでしたよ」

 ため息を吐いて松茸のスケッチに目を落す清太郎へ、あすかが口を開いた。
「なじってたんじゃないと思うわ。かわせみって、欧米では“青い宝石”って呼ばれるぐらい美しくて、孤高な鳥なの。忠太郎さんは、羨ましかったんじゃないかしら。あなたの才能が」
「うむ、わしもそう思う……清太郎さん。これは、あんたにあげる。忠太郎さんの形見やと思うて、これに色を塗ってみいな。そこから、新しい山口清太郎のイラストが生まれるんちゃうか」

 中之島は紙切れとともに、純米酒のお銚子を清太郎に差し出した。
 それを覗き込むあすかが
「私の記事の挿し絵を、頼んじゃおうかな。それに平先生なんて、うってつけのお客さんになりそうだし、銀平さんに押し売りしちゃおうかしら」
 とスケッチに目を細めた。
 受け取った清太郎の指が小さく震えると、太郎は目の前に盃を置いた。
「酒って字は、“水辺の鳥(酉)”とも言ってね。かわせみも、水辺にいつも現れるだろ。だから絵をアピールしたくなれば、うちに来ればいい。業界のお客さんもいるしな」
 かわせみを指先でなぞる清太郎が、「兄貴、ありがとう」とつぶやいた。
 盃に注がれる酒を、かわせみの絵が物欲しげに見つめていた。