Vol.138 石鯛

ポンバル太郎 第一三八話

 晩秋の朽ち葉が、神宮前でつむじ風に巻かれている。舗道を踏みしめる乾いた足音が、冬の近さを家路へつく人たちに教えていた。

 ポンバル太郎へ入って来た客たちは店内の温もりに頬を上気させ、曇ったメガネを拭きながら、今年最後の26byの酒を注文した。太郎の献立も、そんな旨味がのった酒に合う刺身や煮物が増えている。
 とりわけ、今夜は火野銀平のイチオシする品川沖の石鯛がオススメだった。火野屋でもめったにお目にかかれない大物で、60㎝はあろうかというサイズである。

 そして、ひと月もすれば新酒のあらばしりが登場するため、太郎の仕入れる酒販店は値引きを行っていた。それもあって、今夜は日本酒サービスDAYを企画した。

「ほう、一杯当たり150円も値引きとは、太郎ちゃん、気張っとるやないか!」
 今しがたやって来た中之島哲男がハンチング帽とマフラーを外しつつ、酒のメニューに目尻をほころばせた。

 中之島と待ち合わせていた平 仁兵衛も、ご機嫌な顔で2本目のお銚子を傾けている。鼻先に、あらかじめ太郎に頼んでおいた石鯛の塩焼きが匂ってきたからだ。

「中之島の師匠、見慣れない銘柄もあるんでさぁ。太郎さんよう、この“銛(もり)”って銘柄の和歌山の酒は初めて仕入れたんじゃねえの?」
 今日からの日本酒サービスを聞き一番乗りでやって来た火野銀平が、冷蔵ケースをやぶにらみした。武骨な銛の字は素人っぽい筆致で、鮮やかに輝くレッテルや芸術的な揮毫の酒と比べて、売れそうにない印象すら与えた。
「ああ、レッテルの古臭さに惹かれちまってよ。流行りの無濾過生原酒とはちがう、5年物の辛口純米酒だ。和歌山らしい本来の地酒を冷貯蔵した希少品だって、酒屋は言ってたよ」

 太郎の言葉通り、銀平が冷蔵ケースから取り出した一升瓶の裏ラベルには、日本酒度+8の辛口表記と5年前の日付があった。

 太郎の声に押されるように、中之島も食い入るように瓶を覗き込んだ。

「ど、どうしやした? この銘柄は、師匠のお気に入りですか?」

 中之島は銀平に答えず、一升瓶のレッテルの筆致をまばたきもせず見つめた。茶瓶の中で揺れる酒は幾分、熟成して黄味がかっているように見えた。

「まちがいない、死んだ鉄也の筆字や……あいつの仕込んだ酒は、もうこの世にはないと思うてたが。こりゃ、神様のおぼし召しやな」
 中之島の頬が、いつになく紅潮していた。

 亡き人物の造った酒と聞いて、テーブル席の客たちがいっせいに中之島へふり向いた。しばしの沈黙に、平が口を開いた。
「……もはや、幻の酒なわけですか。中之島さんのお知り合いの杜氏が造った酒とは、奇遇ですねえ。私もぜひ、ご相伴に与りたいものです」

 おもんばかるような口調で平が盃を呑み干すと、中之島は銛のレッテルを指でなぞりながら、諦めとも懐かしみともつかないため息を吐いた。
「小磯鉄也。5年前まで和歌山県の海南市にある、小さな蔵元の杜氏やった。地元漁師の息子でな、初夏から秋までは紀南の磯で銛を使う魚突き漁をして、冬になると酒造りをやるっちゅう出稼ぎ蔵人やった」

 だから、銛の銘柄なのかと得心する銀平と平に、中之島はさらに話を続けた。

 高校を卒業後、漁師になった鉄也だが、わずか15年で酒造りの杜氏にのし上がるほど天稟の才を備えていた。平成の初め頃、蔵元めぐりをしながら関西割烹の魚料理に合う地酒を探していた中之島にとって、弱冠33歳の杜氏である鉄也との出逢いは鮮烈だった。そして彼の仕込んだ銛の純米酒のキレと旨味に、ぞっこん惚れ込んだ。

 しかし鉄也は、蔵元から酒造りに専念しろと口説かれても魚突き漁をやめなかった。あくまで自分は紀南の漁師で、自分が銛で獲った魚に合う酒を造ると言って譲らなかった。

 見兼ねた中之島は足しげく蔵元へ通い、さらに高みを目指せと鉄也にハッパをかけ、全国新酒鑑評会金賞を獲るために魚突き漁を向こう5年間は封印しろと諭した。

 自分の酒をこよなく愛してくれる匠の料理人の意見を、鉄也はしぶしぶながら呑んだ。ただ、一つだけ条件を返されたと中之島は語った。
「最期に、一回だけ潜らせてくれと言いよった。地元の魚突き漁師でも近寄らへん、ドン深い磯場でな。そこで、銛の酒にふさわしい大物の魚を獲りたい。それがどんなに美味しい魚かを、わしに教えてやる。それで気がすむちゅうてなあ。わしは、鉄也に新品の上等な銛を贈った。魚がバレへん、寄り戻しのチョッキが先っぽについた銛や。それなら、確実に大物を仕留めると思うた……けど、あいつは磯場の渦に巻かれて沈んだ」

 中之島の語末に、銀平の喉が鳴った。固唾を呑んだのは、テーブル席の客たちも同じだった。

 チリチリと竈の音が聞こえ、石鯛から落ちる脂に炭火が爆ぜた。

「それで、銛の銘柄は消えちまったわけですか……永久欠番か」
 つぶやきながら太郎がゆっくりと竈を開けると、石鯛の塩焼きがカウンターいっぱいに香ばしい匂いを満たした。目の前に置かれた大きな石鯛の皿に、銀平が湧き出るツバを堪えながら中之島へ気遣った。

「鉄也さんが中之島の師匠に教えたかった魚って、何だったんすかね?」
「わしにも、まだ分からへんのや……それよりあの時、魚突きを止めておればと悔やまれてならん」

 やるせない思い出に、中之島が石鯛の焦げた身へ菜箸を突き刺した。途端にカチンと音がして、菜箸が折れた。
「何じゃい!? 石鯛やさかいに、石コロでも入ってんのかいな?」

 重たい雰囲気を変える中之島のオヤジギャグに、さすが大阪人と、太郎と平が顔を見合わせて苦笑した。

 だが、菜箸の先に刺さった光る物に、中之島の顔は蒼ざめた。
「こ、これは、わしが鉄也にあげた銛のチョッキ部分やないか! ちゅうことは、このでっかい石鯛こそ、あいつが最期に突いた魚か!?」

 震える中之島の声に店内が静まると、銀平が諌めながら、金属片に目を凝らした。
「いやいや、師匠。古い銛の先っぽが魚に残ってるなんて、魚をさばいてたら、たまにありますよ……うん? このチョッキ、文字が刻んでありますぜ。ああっ! “鉄也”って入ってら!」
「奇跡や……わしが鉄也のために、特注した銛のチョッキや」

 3cmほどの小さなチョッキ部分を、テーブル席の客たちも背伸びして覗き込んでいた。
「まったく世にも不思議な物語とは、このことですねぇ。しかし、オカルト物みたいに怖ろしくない所がいいですね」

 チョッキを見つめた平は新しい菜箸を太郎から受け取って、ぶ厚い石鯛の身をつまんだ。塩焼きした皮と身の間から、脂とゼラチン質がうまそうに覗いていた。

 太郎が、石鯛の脂に光るチョッキを手に取った。
「おそらく5年前の磯で、この石鯛を突いた直後、鉄也さんは溺れて亡くなったんでしょう。今で60㎝だから、その時だって、たぶん50cmオーバーの大物ですよ……驚いたのは、チョッキを身に埋めたままの石鯛が品川沖で獲れたってことですよ」

 太郎が現実の世界へ話を引き戻すと、銀平が目をみはって叫んだ。
「あっ! そ、そうだった! てぇこたあ、この石鯛は和歌山から黒潮に乗って、東京湾の沖までやって来たってわけじゃねえか!」

 唖然としている店内の客たちに、石鯛に舌鼓を打った平が笑った。
「おっほほほ。地球温暖化で、お魚も大変ですねぇ。いやいや、おかげで私は、ごちそうにありつけましたが……ひょっとしたら、この石鯛は、中之島さんを追いかけて来たんじゃないですかねぇ。鉄也さんが選んだ、銘酒・銛に一番ふさわしい魚は私ですってね」

 目頭を潤ませて石鯛を口にする中之島へ、平が銛の一升瓶を差し出した。
 鼻先を赤くして頷いた中之島は、太郎からチョッキを受け取った。そして石鯛と銛の純米酒の相性の良さに、しみじみとした表情で頷いた。
「鉄也が亡くなって、今年はちょうど5年目や。わしと約束した酒造りにあの世で専念してた鉄也が、もう魚突き漁を再開してもええかと訊きに来たんかも知れん」
 中之島が冷酒グラスの中へチョッキを沈めて、つぶやいた。
「待たせたなぁ、鉄也。やっとこさ、おまはんの純米酒で、一番オススメの石鯛を食えるわ……おおきに」
 冷酒グラスの中で、銀色のチョッキは生き生きと輝いていた。