Vol.147 ひょっとこ

ポンバル太郎 第一四七話

 二日間降り続く都心の雪に、JRや私鉄のダイヤが乱れている。転倒して怪我をする人が続出し、救急車のサイレンは夕方まで鳴り止まなかった。

 ポンバル太郎へやって来る客たちの頭は、うっすら雪を積んでいる。歌舞伎座で新春興行を楽しんで来た平 仁兵衛が、かじかんだ指先を熱燗のお銚子で温めている。

「歳を取ると、寒さが骨身にしみますねぇ。細くなってしまった指が、いっそう縮こまっていますよ」
 平が両手を擦り合わせると、同じような音がカウンター席に聞こえた。ふと目を向けると隅に座る中年の男が、こすった指先を見つめている。きちんと七三分けにした黒髪にグレーツイードのジャケットが似合っている。端正な顔立ちだが、どことなく虚ろな目つきだった。

「……やっぱり断ろう」
 独りごちる男のため息が、平の耳に引っかかった。男の指先を、平は凝視した。
 骨太ではないが、いびつに変形した指先が物作りの職人らしさを伝えていた。男の表情に、平は陶芸家としてスランプに陥った若かりし頃の自分を重ね見た。
「いいお仕事をしている手ですねぇ」
 平は無意識に盃を置いて、男に話しかけていた。

 はっとする男が拳を握ると、注文していた鯖の味噌煮を太郎が差し出した。
「失礼ですけど、私も同感です。木を扱う、お仕事ですか?」
「えっ! どうして、分りました?」

 たじろぐ男に、その袖口に付いたおが屑を太郎が見つめた。
「今どき、おが屑を付けてる方って珍しいですねぇ。できれば、どんなお仕事なのか教えて頂けませんか……この純米酒、鯖の煮つけに合うんですよ」
 平は男にお銚子を差し出して、ほほ笑んだ。悩んでいる男の胸中を斟酌する、平なりの思いやりだった。

「は、はあ……実は私、先祖代々、能面師です。鑿と木槌を使うせいで、こんな不細工な指になりました。人様には、あまりお見せできないのですが」
 能面師の言葉に、テーブル席の客たちが「ほう!」と感嘆の声を上げ、男の手元を覗き込んだ。
「何をおっしゃる。立派なお仕事じゃないですか。面がなければ、能は成り立ちません」
「ありがとうございます。私は、秦 勝と申します。父や祖父のような才能がなくて、家系が恨めしい時すらあるんです」

 赤裸々な秦の答えに、店内が水を打ったかのように静まった。どこかで救急車のサイレンが鳴っていた。
 その時、小さく扉の鳴子が響いて、高野あすかの声が聞こえた。
「秦……っていうと、人間国宝の能面師の家元じゃないですか? エリートの育ちですね」

 以前、能の取材でその家元を訪れたとあすかが語ると、それは自分の父親で、今年の夏に他界したと秦は答えた。
「なるほど……偉大なお父さんか。確かに、プレッシャーはあるなぁ」
 太郎がつぶやくと、秦はうつむき気味で言った。
「ええ、悩んでいます……いまわの際に、父が残した宿題を抱えてまして」
 平は秦の隣に席を移すと、お銚子を傾けた。盃を飲み干した秦は、太郎が酉の市で買った神棚の熊手を見上げた。熊手には大判小判に、おかめ、ひょっとこの面が飾られている。

「能面ではなく、祭りで使う田楽踊りのひょっとこ面作りを、生前に父が受けていました。しかし、亡くなってしまうと、依頼人は後継者の私へ頼んだのです……粗末なひょっとこの面を打つ仕事など、どうして受けたのか。いささか飽きれてます」

 途端に、温厚な平の顔つきが険しくなった。太郎も、意外な口調の秦を見返した。
 口を開きかける平を、あすかが肩に手を置いて制した。そして、冷蔵ケースから純米大吟醸と特別純米酒の一升瓶を取り出し、秦の前に置いた。
「はっ? どういうことですか?」
 不審がる秦に、今度は太郎が冷酒グラスを二つ置いた。あすかがそれに、二つの酒を注いだ。
「秦さん。飲んでみて、どちらが美味しいか答えて下さい」

 毅然としているあすかの声に、テーブル席の客たちが表情を硬くした。
 秦は当然といった口調で、純米大吟醸を指さした。
「それは無意味でしょう。飲む前から、分ってるじゃないですか。純米大吟醸の方が上等なのですから、こちらが美味しいに決まっています」
 自信をのぞかせる秦の声が、鳴子の大きな音に消された。あすかと平は、火野銀平がやって来たのを背中で察した。
「果たして、そうかしら……おあつらえ向きの人が来たから、ブラインドで飲んでもらいましょう」
 しなを造ってグラスを手にするあすかに、銀平がどぎまぎしながら近づいた。

「こりゃ、どういった風の吹き回しでぇ。あすかが、二杯も奢ってくれるってのか」
「どっちが美味しいか、答えてくれたらね」
「へ!? それだけかよ。気味が悪いな」
 訳ありげなあすかと秦を見比べると、銀平は立て続けに二杯を飲み干した。きき酒じゃない飲みっぷりで、すぐに答えを出した。

「この右側の酒、めっぽうキレがいいじゃねえか! 左側はありきたりな吟醸香だし、旨味が少ないな」
 銀平が褒めちぎったのは、特別純米酒だった。したり顔のあすかに平と太郎が頷くと、秦は眉をしかめて酒を飲み比べた。

「うっ! 確かに、この特別純米酒の方が美味しい。でも、なぜだ?」
 うろたえる秦に、あすかが一升瓶の裏ラベルを見せた。特別純米酒は最高級山田錦を50%まで磨き、純米大吟醸に負けず劣らずのスペックだった。

「お酒もお面も、同じじゃないかしら。材料や作り手の腕前しだいで、固定観念を超える作品になるはず。さしずめ、純米大吟醸が能面としたら、ひょっとこの面は特別純米酒。だからといって、あなどってはいけないわ」
 小首をかしげている銀平に、太郎が耳打ちをして事のしだいを伝えた。
 グラスを手にしたままの秦の頬は、含羞の色を帯びていた。
 熊手を一瞥した平が、震えている秦の肩に手を置いた。まなざしは、穏やかさを取り戻していた。
「それに田楽踊りは、能のルーツじゃないですか。ひょっとこ面を打つことで、あなたのその指に、御先祖からの血はもっと濃く流れるのじゃないですかねぇ」
 秦の指が、もう一度、特別純米酒のグラスを手にした。
 それを見下ろす熊手のひょっとこが、ほほ笑んだように見えた。