Vol.168 シカ笛

ポンバル太郎 第一六八話

 梅雨の晴れ間、昼下がりの神宮の森にうっすらと虹がかかった。夕刻に消えると、雨露のしたたる表参道の並木道を輝くような黄昏が包んでいた。
 小一時間ほど前、そこを通り抜けて来た高野あすかは、ポンバル太郎のカウンター席で余韻に浸っている。一杯目の純米吟醸生原酒はすでに半分、ほろ酔いの視線が厨房の太郎に見惚れている。おそらく表参道を太郎と腕組みながら歩く姿を想像しているのだろうと、隣の平 仁兵衛は目を細めた。

「ステキだったなぁ、神宮の虹。都内で目にするなんて久しぶりだし、イイコト、あるかも! よし、今夜は元気出そうなジビエを食べちゃおうと!」
 すこぶる上機嫌なあすかは冷酒グラスをぐいっと飲み干すと、本日の特選メニューにある“野生鹿の背ロース 照り焼き風ソテー”を厨房の太郎へ注文した。いつにない限定料理だけに、テーブル席の客たちも誰が頼むだろうかとようすを窺っていた。
 その時、玄関の鳴子の音とともに、セピア色の夕陽が店内に射し込んだ。夏至が近いせいか、もう陽は長くなっている。
 あすかと平が振り返ると、四合瓶をぶら提げた手越マリが立っていた。久しぶりに見るのは、このふた月ほど被災した故郷の熊本へ帰省していたからである。銀座のBarは、チーママに任せっきりだった。
「太郎ちゃん。約束どおり、あの鹿肉は時価にしとると?」
 訊きながらカウンターへ四合瓶を置いたマリに太郎が頷くと、あすかの視線はメニューに引き戻された。値段表示はなく“グラムに応じて相談”と書かれている。
「えっ……時価なの?」
 戸惑うあすかが、太郎へ顔をゆがめた。
「ああ、この鹿は熊本の南阿蘇村で獲れた野生のメスでね。合わせる酒も、被災した熊本の地酒。ほら、マリさんが持ってる純米酒だよ。だから値段に、お客さんの義援金も含めようってわけだ」

 太郎によれば、熊本県は夏を前にして、地震による観光や自然災害のイメージ回復に、名物の食用馬肉だけでなく、害獣駆除を活用したジビエ料理をアピールする企画を打ち出した。それを支援する手越マリをポンバル太郎が手伝うのだと、赤々とした鹿肉を手にした。
 血がしたたりそうな背ロースへ魅せられるあすかに、マリが問わず語った。
「熊本の鹿肉の旬は、春から夏の終わりばい。理由は、鹿の餌になる木々の若芽がたっぷり生えるけんね。木の芽はタンパク質をいっぱい含んで、その若芽を食べた鹿肉はうまか。この時期は森の葉が茂って、鹿を見つけにくい。それに山は餌が豊富やけん、鹿をおびき寄せるのも難しか。ばってん、あたしの従弟の猟師はシカ笛でおびき出すのが上手たい。それで最初の地震で避難した直後、食料を調達するためにシカ猟をしようと思うちょったらしい……あの、二日目の本震が起こるまでは」

 すっかり熊本弁に戻っているマリが語ったのは、4月16日午前1時25分に発生した震度7の激震のことである。
 マリの従弟で南阿蘇村に暮らす農家 兼 猟師の竜造寺 源太郎は、その夜、前日の地震被害を確かめるため、友人が止めるのも聞かずに家へ戻った。独り者の源太郎は、命の次に大切な猟銃と鎖につながれた猟犬のハチの無事を確認すると、壊れかけた囲炉裏端でほっと胸を撫でおろし、自家製の鹿肉の燻製とお気に入りの地酒を口にして、いつしかまどろんだ。しかし、うたた寝した矢先、あの本震が彼とハチを襲った。一瞬で潰れた平屋から間一髪逃げ出したハチは、避難場所の公民館へ一目散に走り、源太郎の友人たちは罹災を直感した。
「その時、ハチが咥えとったのが、源太郎しゃんのシカ笛たい」
 悔しげなマリの手から、10個の笛がカウンターへ転がった。どれもちがう形だが、使い込んだように飴色の木肌を光らせている。葬儀の後、友人からマリへ送られた源太郎の遺品だった。そして今夜の鹿肉も、南阿蘇村で獲れたジビエだった。
 あすかと平は、うっすらと泥汚れを残す笛に声を失くした。むろん四合瓶の地酒は、源太郎が亡くなった時に飲んでいたのと同じ銘柄だろうと察していた。

「金属製のホイッスルじゃなくて、すべてお手製の木笛か……スゴイな」
 テーブル客の一人が精巧な笛の造りに感心すると、背伸びして覗き込む客たちも無言で相槌を打った。すると、平の声が彼らの動きを止めた。
「でも、本当にスゴイのは、源太郎さんがこれだけのシカ笛を持ちだそうとしていたことですねぇ」
 思わせぶりな平の口調を受け取るかのように、あすかが続けた。
「きっと、避難した村の人たちに渡すつもりだったんじゃないかしら。私も、東北で罹災したから分かります。万が一、また地震が起きて、倒れた家屋の中で生きていたなら、この笛を吹くことで救助隊に無事を知らせることができる。実は、源太郎さん、そのシカ笛を持ち出すために家へ戻ったんじゃないですか」
 あすかの熱い声音に、マリの目頭が潤んでいた。平と太郎が頷き合うと、はっとした客たちは恥ずかしそうに座席へ腰を下ろした。

 その時、まるで地震でも起きたかのように、玄関の扉が大きな音を発した。飛び込んで来たのは火野銀平で、いかにも腹ペコそうな面持ちである。
「太郎さん! まだ、鹿肉のジビエってあるかよう!」
 店の外にまで轟く大声に、ガラス窓が震えた。
 途端にピリピリピリ! とシカ笛がけたたましい音を響かせた。マリのいたずらっぽい顔が、シカ笛を咥えていた。
「な、なんでぇ! マリさん、ビックリするじゃねえかよ!」
 銀平が言い返した時、表通りを巡回中の二人の警察官が現れ、一人はいきなり銀平を後ろ手に捻った。そして、相方の警察官が太郎へ声をかけた。
「ご主人、大丈夫ですか!? 笛の音が聞こえたものでね。おい、あんた! この店で何やってるんだ。ちょっと交番まで来てもらおうか」
 青剃りの坊主頭と黒いTシャツの銀平だけに、その筋の者が面倒を起こしていると疑われても仕方はない。
「えっ! ちがうんでぇ! いや、あっ、あの、勘違いですよう」
 ビビる銀平に、太郎だけでなく、あすか、平も吹き出すと、店中に笑いが巻き起こった。
「雑踏の中のお巡りさんにも聞こえるなら、大丈夫たい! 源太郎しゃん、このシカ笛ば、熊本の鹿肉や地酒と大切に守るけんね」
 マリの嬉しげな瞳の中で、木製のシカ笛が艶光っていた。