Vol.187 バジル

ポンバル太郎 第一八七話

 立冬の訪れとともに、本格的なお歳暮商戦が都内のデパートで幕を切った。今年もグルメギフトが人気でプレミアムなデリカや缶詰めセットが目白押し、ワインだけでなく、日本酒にもおすすめだとニュースの女性レポーターが伝えていた。
 高野あすかも、ポンバル太郎のカウンター席で、グルメなチーズの詰め合わせをスマホからネット注文していた。
「今年のチョイスは、世界のチーズセットだもん」
 上機嫌なあすかの指先は、軽やかにスマホ画面を叩いている。
「けっ! 日本酒向けの歳暮なら魚介類だろうが! うちの一夜干し詰め合わせとか、新巻き鮭なら、安くしといてやるぜい」
 隣で本醸造の上燗を傾ける火野銀平が、あすかのスマホを覗き込んだ。
「そう来ると思ったわよ。おあいにくさま、私が贈る女性たちは、ピザやグラタンにも日本酒を合わせるツワモノなの」
 確かに、ポンバル太郎へあすかが連れて来るのは、酒豪の女性ばかりで、男っ気はない。それが太郎に寄せる純なあすかの想いからだと、銀平は察しながらも
「はいはい。乳性食品は、日本酒の酸味に合うってんだろ。そのウンチクにゃ、耳にタコができたよ」
と腐した。

「じゃあ、日本酒のこと、もっと憶えなさいよ。銀平さんって一夜干しならぬ、一夜漬けばっかりじゃない」
「何だとう! そう言うてめえは、ゴタクばっかり並べてんじゃねえか」
 いつものように引くに引けない二人を、おっとりした声が肩越しに制した。
「まあまあ、お二人とも落ち着いて。私の連れがビックリしてます」
 扉の音も立てずにやって来た平 仁兵衛は、エキゾチックな女性を伴っている。欧風の面ざしに黒曜石のような大きな瞳の女は、30歳頃に思えた。
「コンバンワ。私、ヨウコ・モンテーニュです」
と名乗った声がフランス語の抑揚だった。身にまとったワインレッドのブルゾンも、あすかが見惚れるほどお洒落である。テーブル席の男性客たちは、ヨウコの抜群なスタイルに目が釘づけだった。
「ヨウコさんは、パリで日本食レストランをやってる私の親友のお嬢さんでしてね。日系二世です。半月前に来日して、日本酒や和食の勉強をされてます。それで、太郎さんにご指導をお願いしたいのですが、とんだ場面に出くわしましたねぇ」
 苦笑する平に、ヨウコが印象的な白い歯を覗かせた。

 銀平とあすかの悶着が止まったのを不思議に思った太郎が現れると、平は事情を説明して、ヨウコをカウンターに座らせた。
「パリ風のセンスがあって、純粋な日本酒の肴ですか。平先生、それは俺にも難しいですよ」
と、太郎がいつになく表情を曇らせた。
 あすかが、隣に座ったヨウコの美脚と甘い香水の匂いにドギマギする銀平をからかった。
「ちょっと、さっきの威勢はどうしたのよ。築地だって、フランスのお客さんは見学してるでしょ。そうだ! 太郎さん。銀平さんからヨウコさんに、日本酒に合う一夜干しや塩漬けを教えてあげちゃ、どうかしら。変に味つけの工夫をするより、シンプルかつ珍しい肴を教えてあげればいいんじゃないかしら」
 同じ年頃のあすかの日本語の意味を、ヨウコは平に訊ねながら「ウイ」と頷いていた。
「そうだな。じゃあ、銀平に任せてみるか」
 太郎は目で平に了解を取ると、冷蔵ケースから脂ののったサバの干物を取り出した。千葉の勝浦産一夜干しは、ポンバル太郎の定番肴で、テーブル席の客も骨までしゃぶりついていた。

 だが、ヨウコは高い鼻梁に皺を寄せ、不審げな顔で「イチヤボシ?」とつぶやき、鼻を近づけた。
「ノン! これは、磯臭いですね。パリの人は、これ、苦手です」
 ヨウコのしかめっ面に、得意げだった銀平が思わず口ごもった。その反応に、平と太郎が顔を見合わせると、あすかが代弁するかのように口走った。
「何なのよ! いつもの銀平さんなら、てやんでぇ、この匂いが本物のサバの一夜干しよう ! てなもんじゃない。ははぁ、さてはヨウコさんの色気に呑まれちゃったわけ」
 それにも銀平は答えず、腕を組んでいる。眉間がピクピク動いているのは、考え込む時の銀平の癖である。ヨウコは、反応がない銀平から視線を冷蔵ケースに投げると、緑色の菜っ葉へ珍しげに見入った。それに気づいた銀平が
「日本の菊菜だよ。いい香りなんだぜ・・・・・・そ、そうか! 菊菜があるじゃねえか!」
と立ち上がった。

 小首を傾げるあすかをよそに、銀平は太郎に菊菜をくれと頼んだ。そして、ヨウコの前に置いて力説した。
「あのよう、パリじゃオリーブオイルを使うだろ。そいつで脂ののった一夜干しのサバをソテーしちゃ、浮いた脂の旨味とこんがらがっちまって、台無しよう。だからよ、菊菜と一緒に蒸しちまうんでぇ」
 一夜干しのサバの開きを菊菜でまんべんなく覆いながら、銀平は言葉を続けた。サバの脂を蒸気で少し落とし、硬くなっている身も柔らかくする。菊菜をたっぷり乗せれば、磯の匂いも気にならないという寸法だと、銀平はあすかと太郎にも口を向けた。
 銀平の江戸っ子口調に戸惑うヨウコへ、平が丁寧に説いた。しかし、あすかは首を横に振って銀平にダメ出しをした。
「菊菜なんて、パリにないわよ。それに代わる物って、何なのよ?」
 あすかに視線を向けられた太郎が答えに窮すると、平も長いため息を吐いた。
 その時、玄関の鳴子が踊って、若い男の声が弾んだ。
「太郎さん! このバジル、使ってくんねえすか。うちで最近扱ってんですけど、すこぶるつきに香りが高くて、人気なんでさ。ちょいと洋風なメニューに、打ってつけと思うんですけど」

 外は冷えているのか、やっちゃばの誠司が白い息を店内に引き込んでいた。
「また、ヨウコさんを驚かす、新手のメンバーの登場ですねぇ」
 平が振り返った途端、あすかが「それよ、バジルよ!」と叫んだ。
 銀平も両手を叩くやいなや、誠司が手にしているバジルの包みを奪った。それを受け取った太郎も「任せとけ!」と厨房へ駆け込んだ。
 ポカンと突っ立っている誠司を、平が
「やはり見込んだ通り、あなたは強運ですねぇ」
とヨウコの隣へ座らせた。生まれて初めてフランス女性に密着した誠司の顔は、真っ赤になった。

 蒸し上がった一夜干しのサバからバジルの豊かな香りが漂うと、あすかは冷蔵ケースからスパークリング純米酒を取り出して、ヨウコにグラスを手渡した。
「この日本酒なら、フレンチのソースやチーズにも合うのよ」
 ヨウコが「メルシー」と笑顔をほころばせると、ようやく安心した銀平が誠司の手がらをほめた。
「おめえでも、たまにゃ役に立つじゃねえか。まっ、これも俺が兄貴分だったからでえ。感謝しろよ」
 やに下がる銀平の隣で、サバとバジルを食べるヨウコは
「トレビアン! ドモ、ありがとう!」
と誠司の頬にキスをした。
 「ウッソー! 超ヤバイ!」と両手でガッツポーズする誠司に、平と太郎が「やっぱり、こいつ、持ってるよ」と顔を見合わせた。
 呆然とする銀平の耳元で、あすかが囁いた。
「また美味しいとこ、持ってかれちゃいましたねぇ」
「ぐ、ぐっそう! 誠司、そんなにオススメのバジルなら、てめえもたっぷり食いやがれ!」
 悔しまぎれに、銀平はバジルの束を誠司の口へ突っ込んだ。
 ヨウコの笑い声の中に、バジルとスパークリング純米酒が美味しそうに香っていた。