Vol.188 鼈甲

ポンバル太郎 第一八八話

 冬の稲妻が、スカイツリーの上空を脅かしている。
 忽然と現れた厚い夜雲、うごめく青白い光と雷鳴。横なぐりの冷たい雨に、誰もが地下鉄の入口へ駆け込んだ。
 ポンバル太郎の通りを叩く雨脚も沸き立つように激しく、側溝があふれていた。

 間一髪、豪雨の寸前に滑り込んでいた右近龍二が不安げな顔で腕時計を見つめた。グラスの純米吟醸には、まだ口をつけていない。
「平先生、大丈夫ですかね?」
 声を投げられた太郎がブリ大根の皿を出しながら、曇った窓ガラスに眉をしかめた。
「このゲリラ豪雨じゃ、駅前で足止めを食っちまうなぁ。せっかくのナイトクルーズが台無しだぜ」
 それを聞いたテーブル席の客たちがスマホを取り出し、山手線の運行状況をチェックした。カウンター席の奥に座る男はぬる燗の純米酒で独酌し、季節はずれな扇子を開いては閉じている。飴色の扇子の骨をパタパタ鳴らしながら、雨を気にしていた。

 今夜は、東京湾のクルーズ船で催される日本酒の会に、高野あすかと平 仁兵衛が出かけている。最近、都内のホテルで流行りのイタリアンやフレンチもどきの日本酒パーティとは異なり、いにしえの食文化だった江戸前の魚介類と灘の酒を船上で楽しむトラディショナルな企画である。
 仕事の都合で参加できなかった龍二は、あすかたちが土産に持って来る酒と肴に期待していた。待ち遠しげにグラスを手にした時、玄関が開いた。鳴子の音は、外の雨音に吸い込まれている。

「ふぅ! ひでえもんだ! こりゃ風邪、引いちまわぁ!」
 ずぶ濡れの火野銀平が、雨合羽から水をしたたらせていた。築地職人用のゴム合羽は厚手で雨を通さないが、魚の匂いはしみ込んでいる。銀平の体温で蒸せた生臭さに、テーブル席の客がのけぞった。
「お客さん、すまねえ。どしゃ降りには、この合羽が好都合でね。すぐに片づけっから、辛抱してくんねえ」
 合羽を脱ぐ銀平は客席へ詫びながら厨房へ入ると、裏の戸口に合羽を引っ掛けた。勝手知ったるポンバル太郎の物干し場である。
 それでも、魚臭さは余韻を引いて、テーブルの客たちは小言交じりに酌み交わしていた。だが、カウンター席の男は無反応で、閉じた扇子を鼻筋に当てながら、憮然とした表情で黙っている。
 五十がらみの男の横顔に、龍二が目を凝らして訊ねた。
「あれ……ひょっとして、噺家の深川亭 亀吉 師匠じゃないですか?」
 龍二の声に、テーブル席の客が振り向いて「あっ、ほんとだ。久しぶりに見たよ」とつぶやいた。

 男は「どうも」と短く答えるだけで、噺家らしからぬ無愛想を返した。
 十年前ほど前に新進の落語家として人気を取った亀吉だったが、ここ数年は鳴かず飛ばずだった。
 そのふて腐った気持ちの表れかと、テーブル席の客たちが怪訝な顔で「何だよ、気取りやがって」と洩らした時、厨房から戻った銀平はいきなり亀吉の隣に座った。
「噺家さんだって、人間ですぜ。四六時中、愛想を振りまけるわけじゃねえ。ですが、カウンターで独り酒してる師匠ってえのも、絵になりやすねぇ。今日の高座の反省ですかい? あっ、次のネタを考げえてるわけだ……それにして、いい扇子ですねぇ。さすが深川亭はどなたも亀が名前に付くとあって、鼈甲造りですかい?」
 馴れ馴れしく扇子に顔を近づける銀平を太郎が目顔で注意すると、亀吉はふっと笑みを浮かべた。近頃、遠巻きにされることが多かった亀吉には、銀平の江戸言葉も嬉しかった。

「お褒めに与り、ありがとうごぜえやす。こいつは、ちょいとワケありの扇子でしてね」
 ほろ酔いになったのか、亀吉は太郎に向かって手を挙げた。
「大将、あっしの弟分が、もうすぐここへ参えりやす。盃をもう一つ、お願げぇしやす。そいつぁ、深川亭 亀丸てぇ奴ですよ」
 不機嫌そうに押し黙っているテーブルの客へ亀吉が声をかけると、途端に「えっ! マジかよ」と全員が腰を浮かせた。亀丸は、今、売れに売れている若手落語家で、CMにも引っ張りだこのイケメンだった。
 テーブルの客だけでなく、店内のそこかしこで嬌声が上がった。しかし、噺家としての亀丸の腕を、亀吉はまだ認めていなかった。嫉妬心がないといえば、嘘だった。
 そんな胸のわだかまりも、酔った亀吉の口を開かせた。
「十五歳ちがうあっしと亀丸のお互いの師匠・深川亭 亀太郎は、古典落語をやらせれば右に出る噺家はおらず、とりわけ酒を飲むしぐさは東西一でやした。亡き恩師の金看板に傷をつけちゃならねえ。あっしは、寝る間を惜しんで酒の芸を磨いた。だから、今の亀丸が心配なんでさぁ」

 一時期、自分がマスコミや世間にもてはやされて稽古がおろそかになった反省を亀吉は吐露し、当時の己の姿を亀丸に重ね見てしまうと言って天井を仰いだ。そして鼈甲扇子をしなやかな手つきで開くと、それを盃に見立てて酒を飲むしぐさを見せた。
 見事な喉元の動きと擬音に、客席のそこかしこからため息が洩れた。
 鼈甲扇子の根元に刻まれた“亀太郎”の銘に、銀平と龍二が惚れ惚れとした表情で言った。
「その扇子、深川亭 亀太郎 師匠の形見でやしょう?」
「名人芸のこもった鼈甲扇子だから、うまそうに飲めるわけだ」
 コクリと頷いた亀吉は、飴色の扇子の模様をしみじみと見つめながら答えた。
「こいつを、亀丸にやるべきか、どうか……悩んでます。あいつはイケメンで、あっしなど足元にも及ばないほどが売れるにちげえねえ。だが、有頂天になる前に、稽古の大切さを気づいてもらいてえ。そのためにゃ、亀太郎師匠からもらったこの縁起のいい扇子を渡すことで、責任の重さを知って、酒の芸に励んでもらわなきゃなりやせん……あっしの家宝でやすがねぇ」
 言葉尻とは裏腹に、亀吉は惜しげなく鼈甲扇子を隣の席へ置いた。

 その時、玄関から冷えた風が流れ込んだ。強い雨は上がったらしく、桝の鳴子が軽やかに響いた。
「こんばんは! お待たせ~、クルーズの酒と肴を持って来たわよ。それに、もっとスゴイお土産があるの! あの深川亭 亀丸 師匠と、お店の前でバッタリ! ビックリしちゃうでしょ?」
 店内の歓声と興奮を期待したあすかだったが、ほとんど反応はなく、お通夜のような雰囲気に小首を傾げた。一緒に入った平 仁兵衛も、眼鏡の奥で不思議そうな面持ちを浮かべたが、カウンター席の亀吉に気づくと、後ろに立つ亀丸へ「どうぞ、お先に」と状況を察した。

 ひときわ男前の亀丸に、客席の女性から小さなため息が洩れた。亀丸はそれに応じることなく、緊張した足取りで亀吉の隣へ座った。どちらも羽織姿ではないが、普段着でも姿勢はすっくと伸びている。
「亀吉兄さん、おつかれさまです」
「おう。まあ、一杯やりねぇ……ただし、この鼈甲扇子で、酒のしぐさからだ」
 亀吉が目で指した鼈甲扇子に、遊び半分かと笑いかけた亀丸はたじろいだ。
「こ、こりゃ、おっ師匠さんの扇子。こんな大事な物を、あっしが使うわけにゃ、めえりやせんよ」
「いいんだ……いずれ、おめえに渡す腹だったんでぇ。稽古の大切さを、忘れねえようにな。さあ、見せてみろい! おめえの酒の芸が、どれほどになったかをよ」
 亀吉にしてみれば、ポンバル太郎の客の前で芸をやらせることはタブーだが、亀丸の覚悟を試すつもりだった。

 ふうっとひと息吐いた亀丸の顔が、引き締まった。ゆるりと伸びた手で鼈甲扇子を開くと、亀吉に負けず劣らぬしぐさで盃をあおり、飲み干した後のオクビまでも演じた。
 固唾を飲んで見つめていた客席に、太郎の拍手が響いた。
「こりゃ、大したもんだ。亀吉師匠も顔負けですね」
 それをきっかけに、やんやの喝采が巻き起こる中、亀吉だけが目を丸めていた。
「亀丸。お、おめえ、どうやって稽古したんでぇ」
「へい……これを稽古に使えと、亡くなった亀太郎師匠に頂いてやした」
 亀丸が鞄から取り出したのは、亀吉の鼈甲扇子の柄とよく似た、鼈甲の平盃だった。
「おっ師匠さんは、あっしにはこれで稽古をしろとおっしゃいました。まだ、鼈甲扇子を使うには稽古が足りねえ。この盃で上手くなりゃ、まずは一人前だとおっしゃいました」

 しみじみ鼈甲の盃を見つめる亀丸も相当な稽古を積んだのだろうと、誰もが思った。今夜のなりゆきを龍二から聞いたあすかと平も、鼈甲扇子と盃に目尻をほころばせた。
「それにしても、やっぱり“亀の甲より年の功”だぜ! 亀太郎の師匠、粋な計らいじゃねえですか」
 銀平が亀吉と亀丸の仲を取り持つように、本物の盃を手渡した。それを待っていたかのように、太郎がお銚子を手にした。
「亀太郎の師匠は、この日が来るのが夢だったんでしょうね。その鼈甲扇子と盃は、揃って一対でしょう。亀吉師匠と亀丸師匠がお互いに精進してこそ、深川亭は安泰じゃないですか」
 頷き合った亀吉と亀丸が、盃に注がれた酒を飲み干した。
 二人のうまそうな音としぐさを、亀太郎の鼈甲扇子と盃が聞いていた。