Vol.200 マヒマヒ

ポンバル太郎 第二〇〇話

 都内のデパ地下で、ワインと楽しめるパンを使ったロールサンドイッチ風の恵方巻が人気を呼んでいるとwebニュースが報じていた。麻布十番や六本木の寿司barでは、カリフォルニアスタイルの恵方巻も登場している。
 ポンバル太郎のカウンター席に座る菱田祥一は、タブレットでその記事に目を通していた。飲みかけの純米吟醸のツマミは節分のイワシ代わりに、オイルサーディンである。
 タブレットの画面には、なんと、緑色をした恵方巻にかぶりつくジョージの姿があった。アボカドを使ったドラゴンロールの中身はアトランティックサーモンで、ワインビネガーを混ぜた酢飯に、フルーティな吟醸酒が最高のマリアージュだとジョージのコメントが紹介されていた。

 タブレットを隣から覗き込んだ火野銀平が、訝しげな顔で純米酒の盃を飲み干した。
「なんでぇ。この毒々しい色の恵方巻はよう」
 自称・寿司ツウの菱田は、在米中、ドラゴンロールをよく食べたらしく
「海苔って、ユダヤ系の人たちは苦手なんだ。だから、白ゴマやカシューナッツのスライスを酢飯に振りかけた巻き寿司もある。創作寿司的なビジュアルと甘酸っぱい味わいが、ニューヨーカーに人気なんだよ」
と得意げに答えた。

 アボカドサラダをメニューに入れてある太郎もドラゴンロールは初めて目にしたらしく、「菱田、こりゃ、どんな味がするんだ?」と興味津々である。手にしている長細いシンコ巻きは節分恒例の“太郎巻き”で、恵方巻きが生まれた大正時代の仕立てだ。
「俺は、断然、こっちのシンコ巻きだぜ。シンプルで安いし、すぐに作れるだろ。気の短けぇ昔の江戸っ子には、ピッタリだったにちげえねえや」
 銀平は、サワークリームやディップをつけて食べるドラゴンロールの記事にげんなりした顔で話を続けた。目の前の冷蔵ケースには、魚介類の傍で黒っぽい皮のアボカドが転がっている。
「アボカドってなぁ、バターみてえだし、青臭くって苦手でよ。あれに、マグロやカツオを合わせる感覚が俺にゃ分からねえ」
 腐す銀平に、テーブル席でスパークリング日本酒とアボカドサラダを口にしている女性たちが「この、こってり感が美味しいのにぃ」と声を重ねた。もっぱら甘口でフルーティな酒を飲んでいる彼女たちは、ドラゴンロールも好みそうだった。

「ドラゴンロールは寿司というよりも、アぺタイザーだ。日本酒だけでなく、ワインやシャンパンのオードブルってわけさ。最初は、日系人が多いハワイで火がついたんだよ。ハワイのドラゴンロールは具材がいろいろで、サーモンだけじゃなくて、ロブスターやチキンを巻くのもあるよ」
 菱田の解説にテーブル席の女たちが喉を鳴らすと、銀平は「けっ! そりゃ、寿司じゃねえぜ」と水を差した。
 菱田がタブレットの記事を拡大すると、太郎は「マヒマヒ?」とつぶやいて、ホノルル風ドラゴンロールのレシピに目を止めた。聞き覚えのないマヒマヒに、店内の客たちも小首を傾げた時、玄関の鳴子が軽やかな音を響かせた。

「マヒマヒは、日本じゃシイラですよ。太郎さん、目の前の冷蔵ケースに入ってるじゃないですか」
 厚手のピーコートにネックウォーマーを巻いた右近龍二が、ダウンジャケット姿の浅黒い顔の男を伴っていた。ちぢれ毛の頭とポリネシアン系の容貌で、男は店へ入るなり、日本酒の冷蔵ケースを凝視している。
 龍二は男をカウンター席へ誘いながら、視線を投げてくる銀平に問わず語った。
「こちらは、ホノルルで寿司レストランを経営している、日系三世のエノク・ハマダさん。純粋なハワイアンの血を引いている方です」
 龍二が担当するハワイでの飲食マーケティングの得意先で、ここ一週間、東京に滞在していると紹介した。

 テーブルの女性たちは
「ステキ! ハワイのレストランオーナーですって。セレブなんだろうなぁ」
と好奇の目を向けた。
 その声にハマダは首を横に振って苦笑いすると、分厚い手のひらを前で合わせて
「こんばんは。初めまして、よろしくお願いします」
と流暢な日本語で太郎に挨拶した。板についたお辞儀に、菱田が感心しながら言った。
「まさに、ドラゴンロールの話題にピッタリのタイミングじゃないか。このマヒマヒを巻いたのって、俺も食べたことはないよ。ハマダさんなら、詳しいんじゃないかな?」

 菱田がタブレットの写真を龍二に見せると、ハマダは
「オウ! マヒマヒのアボカドロールですね。身が柔らかいので、フライにして巻いて、マスタードソースをつけて食べます。ハワイでは、子どもにも人気ですよ」
と寿司の巻き方を身ぶり手ぶりしながら、銀平の隣へ腰を下ろした。そして、興奮気味に冷蔵ケースを指さすと、自身のレストランに置いているのと同じ日本酒だと自慢した。

「シイラってのはよう、水っぽい身だから、塩焼きや煮つけにゃ向かねえ。だけど、食べやすいから、俺がガキの頃は、学校給食で白身魚のフライに使われたんでぇ。てこたぁ、あれを巻き寿司にしてるってぇことかよ。まったく、何でもありじゃねえか」
 銀平の江戸っ子言葉に、ハマダは嬉々として聞き耳を立てた。そして、自分の曽祖父は浅草にいた寿司職人だったと打ち明け、コハダやメゴチなど江戸前にぎりの名前を次々に挙げた。
 ハマダを疎ましげに見つめていた銀平だが、先祖が江戸前の寿司職人と披瀝されて魚匠の虫がうずいたらしく、耳をそばだてた。

 昭和30年(1955)、祖父の代にハマダの一家はハワイへ移民した。まだ、日本人への蔑視が厳しい頃で、和食店は日系人相手に細々としか営めず、ほとんどのハワイ住民は、生魚を食べる寿司を奇異の目で見ていた。しかも、ネタにする魚介類を獲る漁師も少なく、カツオやマグロは高価だった。
 ハマダの祖父は早朝から息子とともに小船で釣りに出かけ、レッドスナッパー(タイ)やイエロータイル(ブリ)を獲り、特にマヒマヒ(シイラ)は多く獲れて食べやすいので、バターソティやフライで寿司ネタにした。

「マヒマヒは、ハワイで『強い、強い』の意味。釣る時の引きが強いパワフルな魚だからです。ハワイに渡った頃の祖父は、蔑視されても負けない強さをマヒマヒにもらったそうです。いつも、私に『マヒマヒの強さは、江戸っ子の心意気だよ』と教えてくれました」
 それが経営する寿司レストランの原点だと、ハマダは胸を張った。

 冷蔵ケースからシイラの切り身を取り出した太郎は、小麦粉とパン粉、そして卵も用意しながら
「ハマダさんのお祖父さんは、ハワイアン寿司の草分けなんですね。それなら、銀平の嫌うドラゴンロールは、江戸前寿司がルーツだってぇことじゃねえかよ」
とアボカドにも手を伸ばした。
「あっ、ああ……てぇことになるか。おいおい、太郎さん。まさか、ドラゴンロールを作ろうってのかよ」
 腰の引けている銀平に、龍二が
「食わず嫌いですよ。日本酒に合いますから」
とお銚子を差し出した。
「だけど、作ってもらうのは、ハマダさんだ。本家本元じゃねえと、美味しくねえだろ。それに、江戸前寿司の職人だったご先祖様も、東京で恵方巻をすりゃ喜ぶじゃねえか」

 太郎は、ハマダを厨房に手招きした。
「えっ、いいのですか!」と、ハマダは椅子を転がしそうな勢いで立ち上がった。
「やったぁ、私たちも、オーダーしまぁす!」と、テーブル席の女性客が手を挙げた。
 マヒマヒを揚げる油の音に、銀平は苦笑いしながらも、嬉しげにつぶやいた。
「懐かしい学校給食の白身魚フライが、ハワイのドラゴンロールになるのかよ」
 アボカドをスライスするハマダを柔和な目で見つめる太郎が、海苔でシンコ巻きを作り始めた。
「じゃあ、ハマダさんには江戸の恵方巻を食ってもらうか。ひいお祖父さんの姿を偲びながら」
 頷くハマダの太い指先が、マヒマヒのドラゴンロールを鮮やかに巻き上げた。