Vol.207 鶯徳利

ポンバル太郎 第二〇七話

 つむじ風が麹町や上野周辺で、鴇色の渦を巻いていた。一週間前に開花宣言を受けた東京の桜を、20℃近い気温は一気にほころばせた。
 上着を脱いだビジネスマンたちは、額ににじむ汗を拭いながら「体が、ついていけないね」と暮れなずむ繁華街を目指している。渇いた喉は、冷えた生ビールを求めているにちがいない。

 連日、デパ地下では、花見弁当や花見酒の売れ行きへ気を揉む社員が、売り込む声を張り上げていた。特に、ここ数年は外国人観光客にも花見がブームで、クールジャパン派の客を狙った粋な江戸時代の花見弁当も復刻させている。
 高野あすかは、ジャーナル記事のためにそれを試しに買ってポンバル太郎へ持ち込んだ。珍しく、しかも手の込んだ弁当に、味見をした太郎は美味しさもながら、疑うような高い値段に唸っていた。
 お預けを食っている八百甚の誠司が弁当箱にゴクリと唾を呑めば、隣の火野銀平は眉をしかめてあすかにケチをつけた。

「けっ! なんてぇ贅沢な弁当でぇ。おう、あすか。本物の江戸っ子の花見弁当ってなぁ、昔から質素なんだよ。例えばよう、黄色れぇタクアンを卵焼きに見立てたんでぇ」
 子鮎と山椒の昆布巻きを冷酒で喉に流し込んだあすかが、負けじと言い返した。
「あら、お生憎さま! 私の書く記事は、江戸の御大尽だった豪商や札差(ふださし)、それと武家の花見弁当を紹介するの。だから、貧乏長屋のタクアン弁当は必要ないわ。ついでに、魚河岸とやっちゃ場の職人が食べていた質素な弁当もね」
 あすかの舌禍は銀平の火に油を注ぐかと思いきや、先にキレたのは誠司だった。
「ちっくしょう! こんな弁当、全部、食っちまえ!」

 言うが早いか、両手で弁当箱の中身を鷲づかみにした誠司は口いっぱいに押し込んだ。予想だにしなかった誠司の暴挙に、あすかだけでなく、銀平も開いた口が塞がらない。
 固まっている二人の前で誠司は見る間に弁当を平らげ、冷酒グラスの純米酒を一気飲みして、むせ返った。
「まったく……よくも、それだけ腹に入るもんだ。おめえ、テレビの大食いコンテストに出られるぜ」
 叱る気すらなくした太郎が誠司に仕込み水を出してやった時、玄関の鳴子もコロコロと笑うように鳴った。静かに扉を開けた平 仁兵衛は、五十歳半ばとおぼしき男を連れていた。

 どことなく見覚えのある顔を銀平が凝視すると、あすかが声を上げた。
「深川亭 亀吉 師匠! わぁ、嬉しい。私、江戸時代の花見について訊きたいことがあるんです。ご一緒してもいいかしら?」
 半年ほど前に、鼈甲の盃と扇子でポンバル太郎を賑わした噺家の深川亭亀吉だった。今では平と気脈を通じて、陶器を愛好する間柄である。
 近頃はお互いの愛用品をポンバル太郎へ持参し、品評し合っている。

 媚びるようにしなを作るあすかへ、亀吉はまんざらでもなさげに頷くと
「落語の“長屋の花見”のことでやすかねぇ」
と平をカウンター席へうながした。そのまま、上機嫌の亀吉はあすかの隣へ腰を下ろした。
 銀平が「したたかな奴だぜ」と舌打ちし、誠司は亀吉の所作を気に喰わない表情で純米酒をあおった。だが、あすかは気に留めず、亀吉へ自分の手帳を広げた。

「調べてみると、豪商や武家がこしらえた花見弁当の一の重は、かすてら玉子、わた蒲鉾、若鮎の色付焼き むつの子の煮つけ、筍の旨煮、わらび、ぎんなん、ひじき。二の重は、蒸しガレイ、桜鯛、干し大根。三の重は、カツオとサヨリの刺身、鮑の肝あえ、ウドとワカメあえ、栗きんとん、紅梅餅、焼むすび。なんですけど、この献立って、古典落語に残っていますか?」
「ええ、残っておりやす。ただし、御武家っても、ピンからキリまでありやしてねぇ。いわゆる町方の同心侍なんてなぁ、そんなに贅沢ができねえ。俸給も少ないし、町の商家からせしめた賄賂で食っているような連中でやした。だから、長屋の花見弁当とさして変わりねえ粗末なもんでさぁ」
 読みのちがったあすかが驚き顔で手帳を閉めると、銀平は
「へっへ~い! ざまあみやがれ」
とやにさがった。

 亀吉いわく、ずるがしこい同心には、岡っ引きやその手下に花見で有名な飛鳥山で芝居を打って暴れさせ、それを取り締まるふりをして御大尽を追い払い、残していった極上の灘酒と弁当をせしめる輩もいた。
「ほうっ、面白いですねぇ。お金持ちの豪商たちは、桜を見に行ったのに、サクラに騙されてしまったわけですか。それにしても、世の中は変わりませんねえ。今も、小悪党なこっぱ役人はたくさんいますよ」
 平のジョークを亀吉が褒めそやした。
「桜にサクラたぁ、平先生、上出来なネタでさぁ!」

 それを聞いて、沈んだ顔で黙り込んでいるあすかに太郎が笑いながら言った。
「なんでぇ、そりゃまるで、さっきの誠司じゃねえか。あすかと銀平が揉めてる間に、抜け目なく、キレイすっきり食っちまったからなぁ」
 冷酒グラスを口にする誠司が気まずげにあすかを見やると、まだ、もどかしげな表情のままだった。
 謝ろうとする誠司が腰を持ち上げた時、亀吉が手提げ袋から布包みを取り出した。

「こいつぁ、あっしのお気に入りの一つでしてねぇ。実は、江戸の町民が花見を楽しもうてぇ道具なんでさ」
 現れたのは、注ぎ口に鳥の焼き物がくっ付いた円柱形の徳利だった。今夜は、それを平に自慢するつもりだったのだろう。
「こいつは、鶯徳利と言いやす。この中へ七分目ほど酒を入れて注ぐと、鶯が鳴いてるみてえな音がしやすんで。試しに太郎さん、ちょいと水を入れて、こぼしてみておくんなせえ」

 頼まれて仕込み水を注ぐ太郎の手に、客たちの視線が集まった。
 太郎が水をシンクにこぼすと徳利の鶯はピヨピヨさえずり、店内にどよめきを起こした。あすかも目を丸くして立ち上がり、今しがたの落ち込みなど忘れたかのように、さまざまなアングルから鶯徳利をスマホのカメラで撮りまくった。

 その勢いに誠司は圧倒されつつも、ほっと胸を撫でおろして銀平へ振り向いた。
 立ち直ったあすかを目にして、憎まれ口をきいたはずの銀平が表情を和らげながら言った。嫌いは、好きの裏返しである。
「さすがに江戸っ子のセンスは、粋じゃねえか! ようし、亀吉師匠。その鶯徳利で、俺に酒を飲ませてくんねえ」
 満足げな銀平に、亀吉がしたり顔で答えた。
「ところが、そうはいかねえ。銀平さんは、江戸の庶民と自負してんだろ。だったら、言い忘れたことがあるんだがねぇ。江戸の裏長屋にいた奴らは、この徳利にゃ、お茶を入れて花見をしたんでさぁ。つまり銭をかけずに、酔ったつもりになったってわけでさぁ」
 唖然とする銀平の顔前であすかは亀吉から鶯徳利を受け取ると、太郎に番茶を入れてもらった。
「はい、一盃どうぞ! 江戸っ子で意地っ張りの銀平さんは、お酒ならぬ“お茶け”でお花見ねぇ。おあとが、よろしいようで!」
 爆笑に包まれる店内に、春を呼ぶような鶯徳利の鳴き声が聞こえた。