Vol.223 キュウセン

ポンバル太郎 第二二三話

 大型台風が南太平洋で白い渦を巻いていると、夕方のTVニュースで気象予報士は表情を曇らせていた。早ければ、来週半ばに沖縄から九州に接近する予想だった。
 ワンセグ画面の中で進路を解説しているお天気のお姉さんに、ポンバル太郎のカウンター席でガラケーをいじっている八百甚の誠司は気が気じゃない。来週の築地やっちゃばには、大商いが控えていた。

「なんで、この季節に来やがんでぇ!? 夏野菜の上物がゴッソリ動くシーズンだってのによう、今、作物が台風にやられりゃ、相場が荒れちまうじゃねえかよう!」
 半ギレでカウンターを叩く誠司に、テーブル席の女性客が迷惑そうに眉をしかめた。小さく揺れたカウンターに、端っこで飲んでいる中年の男もおっかなビックリした顔で冷酒グラスの脚を押さえた。
 赤ら顔の誠司は、もうグラス三つ目の本醸造をあおっている。

 ふだんの誠司らしくない荒れ様を太郎は察しながらも、いいかげんにしろと窘めた。
「誠司。粋で売るやっちゃばの男が、みっともねえ飲み方をするんじゃねえ。お天道様に文句をつける前に、辛抱しながら商売をヤリクリするのが築地者の筋ってもんだろ」
 頭を冷やせとばかり仕込み水の四合瓶を置いた太郎に、おっかぶせるようなドラ声が玄関から飛んで来た。
「その通りでぇ! バカ野郎。やい、誠司! 天気に左右されて苦しむのは、築地で生きてる者のサガだ。火野屋だって、ここ数日、近海の不漁でアジやサバが高値でよ。太郎さんの賄い飯のおかずに出せる半端物も、このザマだ」

 銀平が小脇に抱えるトロ箱を開けると、細いアナゴや小イワシのほかに、見慣れない赤や緑の極彩色を帯びた魚が横たわっていた。大きさは30㎝ほどある。
「あ、兄貴。こいつぁ、食えるんですかい? 見た目にゃ、熱帯魚みてえですが……」
「キュウセンって名前の貪食な魚でな。五目釣りで、よく揚がるんだ。関西や中四国じゃ夏の旬魚。白身魚だが、関東じゃ昔から好まれねえ。この毒々しくて派手な姿が江戸っ子にゃ無粋で、人気がなかった。鱗や小骨も多いから、取りにくくってよう」

 キュウセンをつかみ上げた銀平に、テーブル席の女性客が
「あらぁ、でも、とってもキレイ!」
と目をしばたたいた。苦笑いする太郎が、トロ箱を受け取りながら皮肉った。
「そんな嫌われ者の魚を、俺ぁ、賄い用にどう調理すりゃいいんだよ?」
 確かに、太郎も目にしたことのあるキュウセンだが、味わった試しはない。それほど、東京人は口にしない魚である。江戸前の魚が揃うポンバル太郎の冷蔵ケースに入れば、目立つ存在だ。

 頬杖を突く銀平が、悩んだ末につぶやいた。
「う~む……いっそ開いて干物にでもしちまえば、いいんじゃねえか」
 途端に、カウンターの隅から甲高い声が響いた。
「何を言いよんな、あんた。そんな見事なベラを干物にしよったら、もったいないがな」
 制服らしき紺色のブレザージャケットに不似合いな男の強い訛りは、手越マリの九州弁や中之島哲男の大阪弁とはちがい、ノンビリとした抑揚を持っていた。

 胸ポケットには香川ツーリスト社と刺繍され、人懐っこそうな男の声音に銀平や誠司も気を許して問いかけた。
「そ、そうかい? お客さんは、こいつをよく食うのかい?」
「それに、今、ベラって言いやしたね? キュウセンじゃ、ねえんですかい?」
 二人の質問に、太郎やテーブル席の女性たちも相槌を打った時、玄関の鳴子が踊って、聞き慣れた大阪弁が男の代わりに答えた。
「キュウセンの名は、その魚の体にある縞模様が9本あるちゅうわけや。しかし、関西の呼び名はベラや。オスの青ベラ、メスの赤ベラと2種類あるが、実はメスの一部は、成長するとオスへ性転換するねん。ガッハッハ! 今風な両性具有、変わった魚やろ?」

 卒然と現れた中之島哲男は、カウンターの男へ馴れ馴れしげに近づき
「お客はん、四国の讃岐の出身でっしゃろ。その訛り、懐かしいですわ。昔、手打ちうどんの修行に高松へ行ったことがおましてな。ベラも、よう食べましたでぇ」
と、わけ知り顔で隣に座った。
 男も怪訝な顔はこれっぽっちも見せず、むしろ中之島の声かけにほっとしたのか、
「あ、初めまして。私、三好ですけん。お察し通り、讃岐の生まれ育ちです」
と会釈した。そして、ベラの味方を得たかのように自慢話を問わず語った。

 ベラは夜が来ると規則正しく砂に潜って眠ったりする変わり者だが、瀬戸内周辺では夏が来ると、釣具屋はベラの専用仕掛けを並べ、この魚だけを狙う乗合船も出漁する。それに、スーパーや魚屋では、シロギスよりも高値で売られる。小豆島の甘い醤油で食べる淡白な白身の刺身は、香川の甘口の日本酒にピッタリだと解説した。
「この派手な皮の下にゃ、そんな上等な白身が隠れてんですかい! そいつぁ、ぜひ、ご相伴に預かりてぇすねぇ!」
 舌なめずりをする誠司に、三好の相好が崩れた。太郎もそれを耳にして、早速、柳葉を取り出し、キュウセンのぬめりを落としている。

「ちょっと待ちや! わしのおススメは、何ちゅうても三杯酢の南蛮漬けや。香川の家庭料理、おふくろの味や。そうやろ? 三好はん?」
 料理人である中之島は、刺身や煮付けもいいが、揚げて三杯酢に漬け込んで柔らかくすれば、骨ごと食べられ、白身が酢でいっそう引き立つと太郎へ教えた。
 いつの間にやら店内の客たちも聞き耳を立て、トロ箱に唾を呑んでいる姿に、三好が立ち上がった。
「ほんなら、私が大将を手伝いますけん。一緒に、ベラ料理をいろいろ作ってみまい!」

 臆することない三好の讃岐訛りに銀平たちは失笑したが、太郎は快く厨房へ誘った。
 テキパキとベラの鱗を落とし、皮を剥ぐ三好の腕前は太郎も舌を巻くほどで、中之島も感心顔で「こりゃ、玄人はだしやな」と褒めた。
 刺身に煮物、南蛮漬けが出来上がると、店内の客たちへふるまわれ、太郎は景気づけにと香川県の地酒をサービスしながら三好に訊いた。
「ありがてぇよ……ところで、三好さんは東京へ仕事で来てるんですかい?」
「ええ、東京観光とお台場の屋形船ツアーの企画を、数軒の船業者へ提案に来とります……ただ、船の料理と酒が香川から来るお客さんに合うかどうか心配で。ベラとか使ってもらえたら嬉しいけど、東京じゃ、無理やけんねぇ?」
 築地の魚卸商だと知った銀平に、三好は訊いた。

 気まずい顔の銀平に、太郎が目顔でどうにかしろと合図を送った。
「……なくもねえがよう、松子のババアとは、相変わらず喧嘩仲でよう」
 ベラの刺身をつまみながら、銀平は伏目がちに太郎へ答えた。叔母である船宿“お松丸”の女将・松子を紹介する手はあるがと口をにごしかけた時、玄関の鳴子が大きく響いた。
 いなせなお松丸の半被姿に、松子のひさしに結った銀髪が似合っていた。手にするのは、毎夏、太郎へ届けている屋形船の宣伝チラシで、偶然に銀平との鉢合わせである。

「げっ! 呼ぶよりそしれたぁ、このことかよ!」
「何だってぇ! 久しぶりに叔母と逢ったてぇのに、ご挨拶な野郎だね。このスットコドッコイは!」
 テーブル席の女性客をはじめ店内が静まると、二人に挟まれて青ざめる誠司が、ベラの南蛮漬けを箸からこぼした。それに視線を落とした松子が、窪んだ目元をしばたたいて言った。
「あら! こりゃ、ベラの三倍酢じゃないかい? 懐かしいねぇ。あたしゃ、若い頃に讃岐の金毘羅参りによく出かけてねぇ。現地の民宿で、よく食べたんだよ。何せ、うちは船商売だろ。金毘羅様は、船の神様。航行の安全祈願ってわけだよ。東京じゃ、ベラを食べないから、忘れかけてたねぇ……ところで、これは銀平が持って来たのかい? お前もたまには気が利くじゃないか」
 一気に捲し立てる松子に気圧されていた三好が、いきなりカウンターへ両手を置いて額づいた。
「お願いしますけん! ベラの料理を、屋形船で出してもらえませんか?」

 奇遇な出会いに興奮する三好の素性を太郎が紹介すると、松子は「そうだったのかい」と目尻の皺をほころばせた。
 相談を受けた松子は、三好と太郎の手料理を味わうと銀平の肩を小突いた。
「やい、銀平。あたしと三好さんで献立を考えるから、火野屋でベラを用意しな。あたしゃ、白焼きがおススメだね。料理の方法は、お江戸風に簡単さ! 鱗も取らず塩も振らず、はらわたと鰓だけ取って焼くだけ! そいつを、おしたじ(生醤油)で頂くってわけさ。どうだい、中之島さん、太郎さん、すこぶるつきに江戸前だろ?」
「こりゃ、大御所に一本取られたなぁ……ベラ料理、わしも見直さなあかんな」
 中之島が三好に香川の酒を注ぐと、トロ箱に残っている数尾をつまんで、太郎が言った。
「パリパリした鱗の食感も、うまそうですね。今、やってみやしょう!」
 竈に炭火を熾す太郎に、客席から白焼きの注文が飛んだ。松子から大量のベラを集めろと命じられた銀平が、南蛮漬けを口にしながら愚痴った。
「まったくよう、いつもこれだぜ。強引なババアめ」
「うるさいね! ベラの本名はキュウセンだけに、お前とは、ちょいと休戦だよ……やい、八百甚の若いの。ここは『座布団一枚』って、ヨイショする所だろ!?」
 首をすくめる誠司が三好の向こうへ逃げると、客席に笑いが巻き起こった。