Vol.236 小布施栗

ポンバル太郎 第二三六話

 ようやく紅葉へ移ろい始めた上野公園では、早渡りの雁や鴨の群れが不忍池にやって来ていた。冷え込んできた夕暮れ、上野駅前の居酒屋や食堂はモツ煮の湯気を立ち昇らせ、アジア系の外国人観光客が列をなしている。
 ポンバル太郎の通りにも小鍋料理をイチオシする店が増えて、ビジネスマンを誘っていた。向かいのウナギの寝床のような新しい割烹の幟には、“ボタン鍋”や“ハリハリ鍋”の文字も見え、火野銀平と青砥誠司の視線を奪った。

「ボタンは猪、ハリハリは鯨。どっちも、中之島師匠の地元・関西の鍋料理でやすね」
 誠司が、野菜の仕入れで兵庫県に出張した時に食べたと懐かしがった。
 店名は“丹波屋”。築地育ちの銀平には親しみを感じない名前である。
「丹波って、上方系料理店がこだわる但馬牛肉、黒豆、松茸とか超高級食材の産地なんすよ。今日、太郎さんに持って来た丹波栗もそうすけど、仕入れるのは八百甚でも至難の業っす」

 誠司が手に下げる籠の中には、栗の大きなイガが覗いている。
 栗に興味はないのか、ふ~んと生返事しながら銀平が問わず語りした。
「そういや、この店は先月にオープンしてんだが、60歳ぐれえの大将は大阪の料亭で板長をしてたらしいぜ。それが東京の場末で割烹たぁ、ワケありみてえだな」
 それでも銀平の口ぶりが嬉しげなのは、すでに仕入れの営業をかけた築地の葵屋が取引をして、おっつけ火野屋にも丹波屋を紹介すると聞いていたからだった。
「やたら東京湾で揚がる活きのいい魚介類や海苔にまで、こだわってるそうだ。関西人なら、明石とか泉州の魚を欲しがるはずだけどよ」

 銀平が上機嫌でポンバル太郎の扉を開けると、カウンター席にはジャーナリストのジョージと平 仁兵衛が並び、その間に挟む浅黒い顔の男と談笑していた。
 恰幅のいい男の前には丹波の辛口純米酒の四合瓶が置かれ、渋い立杭焼のぐい呑みを酒で満たしていた。太郎の店の盃ではなく、マイ猪口のようである。
 それよりも銀平の視線が釘付けになったのは、男の藍色の半被に“丹波屋”の文字が白く抜かれていることだった。風貌から察して、大将にちがいなかった。
「あっ! 銀平さん、ちょうど良かったです。この方、お向かいに新しくできた、丹波屋さんのご主人で、難波太一郎さんです。太郎さんへ、ご挨拶にいらしたそうです」
 興奮気味なジョージは、スマホを手にしている。どうやら難波の話を、取材がてら録音しているようだった。太郎も燗酒を平に注ぎながら、難波の話を耳に入れていた。

「どうも、初めまして。大阪から来ました、丹波屋の難波と言います。よろしゅう、たのんますわ」
 前かがみで名刺を差し出す物腰の低い難波に、誠司は「こりゃ、ご丁寧に!」とお辞儀を返した。仕入れの一件もあって、銀平は誠司をどかせると破顔一笑して言った。
「こちらこそ! あっしは、築地の火野屋てぇ魚卸でさ。よろしく、頼みまさぁ!」
 ガラス窓を震わすほど張り上げた銀平の声に、テーブル席で談笑していたグループが腰を浮かせて振り向いた。
「もう酔っているんですか?」と平が目をしばたたくと、太郎はしたり顔で皮肉った。
「なんでぇ、えらく機嫌がいいじゃねえか。はは~ん! 火野屋の仕入れを頼もうてぇ魂胆か」
 難波は、銀平の“築地魚商 火野屋”のロゴマークが入ったジャンパーを目にして「ああ、葵屋さんのお仲間でんな」と得心顔を浮かべた。

 銀平はジョージを押しやって、人の良さげな難波に訊ねた。
「それにしやしても大阪の料亭を辞めて、こんな下町で割烹を始めるたぁ、どうしたわけですかい? 関西の料理人に、江戸前の魚は扱いにくいでやしょう」
 難波の素性を初耳の太郎たちが驚くようすに、口を滑らした銀平はしまったとばかり頭を掻いた。
 難波は、ぐい呑みを手元で止めたまま押し黙った。太郎と平が目を合わせると、ジョージが「トラブルで、逃げて来たのですか?」と遠慮のない質問をした。
 その時、玄関の鳴子がしゃがれた声とともに答えた。

「あほう、難波はんには、純粋な理由があんねん」
 久しぶりに登場した中之島哲男に、見知ったテーブル席の客が小さく会釈をした。だが、いつもの愛想笑いがない真顔の中之島に、難波は「兄貴、半年ぶりですな」と深く頭を下げた。
 二人の間柄を知った太郎たちに中之島が無言で頷くと、難波はひと息呑み込んで話をつないだ。

「うちの嫁はんは、東京生まれでんねん。私は、大阪の道頓堀にある料亭に40年間、お世話になりました。彼女は私と一緒になって35年間、大阪に暮らしました。けど1年前、総料理長の職を目前にして嫁はんが認知症を発病したんです。あいにく進行が早うて、どんどん記憶は薄れていくので、今後の介護を考えたら総料理長は引き受けられまへん。私ら夫婦は一人息子を小さい頃に亡くして、子どもがいてませんのや。それで、彼女の記憶に残ってる生まれ育った台東区で介護生活をしながら、細々でも料理店をやろうと、覚悟を決めて引っ越したんです。嫁はんが、子どもの頃に見た隅田川の桜や花火、毎日食べてた江戸前の魚や菓子が恋しいっちゅうんですわ。けど、私は兵庫県丹波の生まれ育ち、大阪の料理界で生きてきた男や。そう簡単に水のちがう東京では、やっていかれへん。それが不安でしてんけど、大先輩の中之島の兄貴のアドバイスで、ポンバル太郎さんに近い場所に店を構えさせてもらいました」
 打ち明けた難波に、銀平は妻のためにも使う目的で江戸前の魚にこだわっていると察した。

 事情をこれっぽっちも聞いていなかった太郎は
「中之島の師匠、水臭ぇじゃねえですか。先に言ってくれりゃ、いいのに」
と口を尖らせた。
「まあ、あんまり心配かけても、あかんしな。これからは、あれこれ相談に乗ってやって欲しいっちゅうこっちゃ」
 はぐらかす中之島に悪気はなく、いかにも彼らしい計らいと、平は嬉しげにぬる燗のお銚子を差し出した。難波の大阪弁のイントネーションを理解しづらいジョージに、太郎が片言の英語で状況を通訳した。
「オウ! いい話ですねぇ。中之島さんの忖度ですね」
とジョージは誠司と目尻をほころばせた。

 ところが、盃を飲み干した難波は肩を落として愚痴った。
「一つだけ、悩んでまんねん。嫁はんは江戸前の魚に喜んでまっけど、ある栗の菓子だけがどうしても食いたいっちゅうて、聞きよりまへんねん。熟成した日本酒に漬け込んだ、この季節にしか口にでけへんかった栗菓子らしいんですわ」
 平がお銚子をカウンターへ置いて、訊き返した。
「栗の松露みたいなもんでしょうかね? 日本酒に漬けるのは、聞いたことがありませんが」
 すると誠司が、手にする籠を太郎へ渡しながら言った。
「ありゃ、偶然にも栗ですかい……こりゃ、長野県の小布施の栗でさ。それこそ難波さんの故郷の丹波栗が有名じゃねえですかい。手に入れるのは、たやすいでやしょう」

 誠司が、丹波栗は八百甚でもわずかな数しか扱わない上物だと吹聴すると、中之島は胸を張った。
「わしの割烹では毎年、ぎょうさん甘露煮を仕込むで。大粒で、ほっくほくや! けど、それやったら難波はんかて、知っとるがな。奥さんが欲しがってんのは、昔ながらの関東の栗やろな」
と太郎や銀平に話を振った。とりわけ、青果物を扱う誠司には期待の目を向けたが、頭を抱えている難波へ面目なさげにうつむいた。客席の誰からも、声は上がらない。
「まったくよう! 肝心な時に役に立たねえ弟分だぜ」
 銀平が誠司をけなした時、玄関の鳴子が小さく揺れた。

「それは、小布施の大栗を日本酒に漬け込んだ物よ。江戸時代から、御府内の菓子として人気があったの。でも、今は売ってないわ」
 高野あすかのきっぱりした声に、息詰まるような客席の雰囲気がほどけた。
 ニンマリとする中之島に、平が「やっぱり、あすかさんですねぇ」と頷くと、難波は目をしばたたいた。銀平は案の定、いいところを持っていかれて気に入らない。
 あすかは、冷蔵ケースから西東京の地酒を取り出しながら、解説を続けた。
 小布施の栗は、かつて「徳川三大果」の一つとして将軍家にも献上されていた。実を保存し旨味を増すために、こんな江戸の地酒に漬け、ザラメの砂糖をまぶした松露が昭和の半ばまで人気だったと解説した。

「そ、それや! 嫁はんは、“ザラメの栗”とばっかり繰り返しますねん」
「ふ~む、そりゃわしも、初めて聞いたわ。いっぺん食うてみたいもんやな。西東京の酒は旨味もコクもあるよって、栗の甘さがグっと上がるやろな」
 中之島の声に、店内の客たちだけでなく、拗ねていた銀平も思わず唾を呑み込んだ。

「でも、残念ながら、商品としては、もうなくなってます。だから、奥様に喜んでもらうには、難波さんご自身で小布施の栗を手に入れて作るしかないですね」
「ちゅうても、私には手立てがおまへんわ……」
 途方に暮れる難波に、ここぞとばかりに銀平が誠司の襟首を引っ張った。
「てぇこたぁ、名誉挽回だな、誠司! ここまでお膳立てができりゃ、小布施の栗を手に入れるのは、八百甚なら簡単じゃねえかよ。西東京の酒は、太郎さんに用意してもらやぁ、いけるぜ!」
 銀平の機転に、中之島と平が手を打つと、難波が
「おおきに! きばって、そのザラメ栗を作りますわ」
と頭を下げた。
 そのようすへ目尻をほころばせるあすかに、太郎が独りごちた。
「分かってたんだろ。銀平が、ああするのは……やることが憎いね」
 また一人、ポンバル太郎に新しい仲間が加わった。