Vol.237 堀川ゴボウ

ポンバル太郎 第二三七話

 鮮やかに紅葉したもみじが、上野の飛鳥山公園を染めていた。今年は8月に関東の長雨が続いたせいか、焼き枯れせずに、彩りに満ちた錦繍を描いている。
 ただ、外国人観光客の雑踏は尋常ではない。口早な中国語やタガログ語が飛び交い、今しがた上野からポンバル太郎へやって来た中之島哲男と仁科美枝は、くたびれ顔で冷やおろしの盃を口にした。

「京都もインバウンドのお陰で潤うてますけど、東京は、ちょっと騒がしすぎますなぁ。えらい疲れましたわ」
「ほんまやなぁ、電車の混み方がハンパやないわ。太郎ちゃん、すまんが関西風の薄味の料理を作ってんか」
 熱っぽいのか、額に手を当てる美枝をねぎらうように、中之島は仕込み水を注いだグラスを差し出した。そのやわらぎ水を、カウンターの隅に座る若いカップルも大吟醸と口にしていた。女性は美枝の楚々とした正絹姿に「素敵、京友禅ですか……とっても上品ですね」と見惚れた。
 美枝は水をひと口飲むと「おおきにぃ」と京言葉でシナを作り、ほうっとため息を吐いた。着物に染みている微香が、カップルの鼻先をくすぐった。

「おつかれの美枝さんには、これが特効薬でしょ」
 太郎がカウンターへ置いた備前焼の小鉢には、輪切りにした直径7センチはあろうかという太い煮物が盛られている。薄口の昆布ダシで煮てあった特大サイズのゴボウで、その大きさに、カウンター席のカップルが目を止めた。
 美枝と中之島が「ああっ、これ嬉しい!」と目尻をほころばせた途端、玄関の鳴子が揺れて、八百甚の誠司の若々しい声が聞こえた。
「新物の堀川ゴボウっすよ! 大ファンの美枝さんが京都から来るって聞いたもんで、今朝、八百甚で取り置きしておいたんすよ。でも、やっぱ京野菜は値が張りまさぁ」

 築地のやっちゃばに京ブランド野菜はいつも入っているが、堀川ゴボウはこの時期が旬でめっぽう高値だし、1本が千円もするから、東京の庶民的な居酒屋にはほとんど売れないと誠司は苦笑した。
「そうどすか。けど、堀川ゴボウは、昔から京都の女性にはお薬代わりどっせ。ちょっと恥ずかしい話やけど、これを食べたらお通じの具合がようなるんどす」
 カップルの視線を感じながら美枝が照れ笑いすると、中之島が咳払いをして若い女性に「あんさんも、どうでっか?」と小鉢を勧めた。ところが、答えない女性の視線は、料理ではなく、誠司の顔に注がれている。

 怪訝な表情の中之島の横で、美枝が女性の連れの男に訊ねた。
「誠司君の、お知り合いどすか?」
「い、いいえ。僕たちはこの店、初めてですから……裕子ちゃん、どうしたの?」
 男は、戸惑っている誠司と食い入るように見つめる女性を見比べ、なで肩を揺すった。それに女性は答えず
「青砥君……でしょ? 憶えてない? 私、墨田区の高校で一緒だった有働裕子よ」
と誠司へ、形の良いオデコを突き出した。ツヤツヤした富士額に、ドギマギしていた誠司が素っ頓狂な声を上げた。
「ああっ! お前、生徒会長で、菜園クラブにいた有働か!? 眼鏡も外してるし、色白になって別人じゃねえかよ」

 誠司は裕子をためつすがめつ見直すと、気を揉んでいるようすの連れの男を一瞥して、中之島たちへ聞こえよがしに言った。禿頭にジャンパー姿の誠司とは対照的に、男は小ぎれいなスーツ姿で七三分けが生真面目そうに見える。
「高校の頃、部活が一緒でしてね。有働は、学校きっての秀才でさぁ。親父さんは、築地の料亭オーナー。うちの実家は古い八百屋で、彼女の家がお得意先だったけど、学校じゃ、いつも喧嘩ばっかりしてたんすよ。それにしても、あの色黒でやせ細ってた有働が、こうも女らしくなるとはねぇ。思い出した! お前、学校で育てた野菜の中じゃ、ゴボウが一番好きだったよな。それで、あだ名は“ウドのゴボウ”だった……しょっちゅう、うちのお袋に金平ゴボウを作って、持って来てくれたっけ。俺は、食わなかったけどよう」
 ダジャレのような裕子のあだ名に中之島が「がっはは、上手いこと言いよる!」と吹き出すと、美枝が「女性に失礼やわ。笑い過ぎどす」と頬をつねった。

 10年ぶりながら口さがない誠司に、裕子も負けじと、ふくれっ面でやり返した。
「ええ、そうよ! でも、ゴボウ好きだから、あの頃の色黒な肌もデトックス効果で、キレイになったの。それに彼氏もできたし。こちら、大学助手の谷本さん……私も、そちらの女将さんと同じで堀川ゴボウが大好き! 私の祖母は京都人で、一乗寺って町で堀川ゴボウを作ってて、子どもの頃から送ってくれてたの! 元・料理人だった父も、健康には堀川ゴボウが一番だってオススメなの!」
 唐突に彼氏を紹介し、どこか気色ばんでいる裕子に、美枝は誠司へのやるせない気持ちを感じた。おそらく、二人は学生時代に淡い恋心を抱いた仲で、今も裕子は誠司に未練があるのではと察した。それは、隣で表情を曇らせている谷本からも覗えた。

「ほう! そら、ほんまもんや。一乗寺の堀川ゴボウは、わしら関西の料理人の間では、幻のゴボウや」
 俄然、熱を帯びる中之島の大阪弁に裕子も嬉々として頷いたが、谷本は寡黙だった。
 通常のゴボウの収穫は葉っぱを引っ張って土から抜くが、堀川ゴボウはスコップで広く掘り起こさねばならない。つまり、堀川ゴボウは地中を下向きに伸びず、横向きになっているのだ。まるで木の根っこのようなゴボウは直径9センチにもなるが、土中に浅く植わった堀川ゴボウには土の圧力が少なく、実が柔らかいのだと中之島は自慢した。

 中之島の解説を聞く太郎が
「普通のゴボウとは、まったく別物ってわけか。やっぱり、古都のグルメはちがうな」
と腕組みしながら感心すれば、テーブル席の客たちが中腰になって堀川ゴボウの煮物を物欲しげに覗き込んだ。
 誠司は面目なさげに頭を掻くと
「そこまでとは、知らなかった……野菜を扱うプロなのに、勉強不足で申し訳ねえっす。高校生の頃、有働の堀川ゴボウの料理を食っておけばよかったかなぁ、ハハハ!」
と堀川ゴボウの煮物を太郎へ頼んだ。

 裕子の気持ちを素知らぬふりする誠司の脇から、美枝が盃を手にして言った。
「薄味で柔らかい煮物ですよって、お酒は、伏見のひやおろしにしよし。裕子さんと谷本さんも、ご一緒にいかがどすか」
 美枝の斟酌に気づいた谷本が
「ありがとうございます。裕子ちゃん、頂こうか」
と、盃を受け取った。だが、裕子は答えず、誠司に向かって言い返した。
「そうよ! あの頃、ちゃんと私が菜園部で育てて料理した野菜を食べてたら、今頃、築地の仕事に役立ってたのに。料亭の娘の私が、もっと教えてあげたのに。どうして、私の堀川ゴボウの料理を食べてくれなかったのよ……あなたのこと忘れていたのに、どうして偶然、ここにいるのよ!」

 裕子は太郎の差し出した堀川ゴボウを箸で突き刺すと、もどかしげに唇を噛んだ。しらふのままの若い女性の激情を、オヤジたちはいかんともしがたい。
 今しがたの中之島の威厳はどこへやら、太郎もお手上げとばかりに俎板と包丁を拭き始めた。口ごもったままの誠司の前で、裕子が堀川ゴボウから箸を抜き、両手で顔を覆うと、カウンターを静けさが包んだ。
 しょうがないなと腹をくくった美枝がお銚子を手にして裕子の隣へ移ろうとした時、谷本が口を開いた。
「僕は知っていたよ。裕子ちゃんの気持ちに、わだかまりがあるのを。青砥さんのことだったんだね。野菜好きな裕子ちゃんだから、さっき青砥さんが築地の青果商と知った時、察しがついたよ……でもね、僕だって裕子ちゃんを振り向かせるほど、堀川ゴボウの魅力は知ってるんだよ」
 むせ返るように嗚咽をこらえる裕子の背中を、谷本がさすりながら語った。

 堀川ゴボウの始まりは四百年前。京都の一乗寺から一里離れた所に、あの豊臣秀吉の屋敷「聚楽第(じゅらくだい)」が建っていた。しかし、豊臣政権が徳川幕府に取って代わられると聚楽第は壊され、その堀に捨てられたゴボウが巨大に成長した。これが、堀川ゴボウの伝説だ。そもそも関東地方は土が深く、水はけがいいから長細いゴボウが栽培されているが、関西は土が浅いため葉ゴボウや短いゴボウが多い。だが、堀川ゴボウは収穫できるまで2年以上かかり、希少な高級品だから、京都の料亭では太い空洞を使った詰め物料理が人気だと、いかにも学者の卵らしく訥々と述べた。
 聞き入る太郎に、その通りだと美枝が目顔で頷いた。中之島も初耳だったらしく、鼻髭をさわりながら感心しきりである。

「ほう、そんな逸話があったんかいな。ちゅうことは、堀川ゴボウが大きいのは、太閤はんの御威光ちゅうわけか」
「そうでしょうね。おそらく京都の人たちは、東国の徳川家康に洛中を支配されるのが嫌で、上方人の豊臣秀吉を贔屓したのでしょう。それに伏見の町を作ったのも、銘醸地にしたのも秀吉ですしね」
 含蓄のある谷本に感嘆する声が客席から聞こえると、落ち着きを取り戻した裕子が「ありがとう」と頷いて谷本の手を握った。

「ふぇ~! こりゃ、叶わねえや。おい有働。おめえにお似合いの、頭のいい彼氏だぜ。先行きが、楽しみじゃねえか」
 誠司がうそぶくと、裕子は谷本と寄り添いながら、伏し目がちに答えた。
「うん、ありがとう。私も、幸せになれると思う……谷本さん、もう帰りましょう」
 無言で頷いた谷本は太郎へ勘定を頼むと、中之島と美枝に深いお辞儀をして、誠司に「裕子さんは、僕が大切にします」と念を押すように言った。
「あ、ああ……よろしくな」
 生返事する誠司を、二人は振り返ることなく出て行った。カウンターには、裕子の食べ忘れた堀川ゴボウが残されていた。

「……ちぇ、もったいねえことしやがる」
と誠司は箸でつまんで、口へ放り込んだ。シャリシャリと柔らかい音を立てる誠司の横顔に、中之島がひやおろしのお銚子を差し出して訊いた。
「本音は、どうなんや? おまはんも、まだ、裕子はんに未練があるんか?」
「ねえです……所詮、俺とは似合わねえ、高級料亭の娘っすから。それに俺は、上品な京都のゴボウより、アクの強い江戸のゴボウが好きなんでさ」
 胸の内をはぐらかすように、誠司は太い堀川ゴボウを頬張った。
「そうどすか。ほんなら、あては京女どすけど、結構アクがおますさかい、誠司君にはお似合いどっせぇ」
 強がる誠司の耳元に、盃を飲み干した美枝が囁いた。
「うへぇ! ご勘弁をお願ぇしやす」
 どっと沸くカウンター席の笑顔を、堀川ゴボウを煮つける鍋の湯気が包んでいた。