Vol.239 又鬼(マタギ)酒

ポンバル太郎 第二三九話

 お歳暮商戦がピークを迎え、デパートやネット販売が活気づいている一方で、都内の商店街も手をこまねいてはいられないと活気づいていた。
 巣鴨地蔵商店街や戸越銀座商店街には産直品へこだわる商店が多く、その一つの酒屋「あずま屋」は全国の新酒あらばしりを一番に売り出し、例年、老練な大将みずから、ポンバル太郎へセールスにやって来ている。あずま屋は大正時代から続く老舗の酒販店で、家族だけで営む零細企業だが、都内の料理屋に多くの得意先を抱え、信用第一の商いを守り継いでいる。

「太郎さん、今年はオマケに、おもしれえ1本も持って来たぜ。秋田の蔵元が隠してた“マタギ酒”てんだ。熊や鹿を取る猟師が、山小屋の囲炉裏で暖まりながら飲む酒だ」
 五分刈りの真っ白い頭を撫でながら、あずま屋の東 長介はポンバル太郎のカウンターの隅へ、茶色の一升瓶を置いた。
 できたてのあらばしりを冷え込む晩秋に山小屋の床下へ隠して、雪が積もる頃まで熟成させておく。そして狩猟が始まると、ちょうどいい按配に旨味が増して、獣の料理によく合うのだと東は自慢げに語った。
「限定品だがよう、男っぽくて、俺のようなオヤジ連中にはウケるんじゃねえかな。ポンバル太郎で、試してみちゃくんねえか?」
「なるほど、銘柄は“又鬼”か。コワモテの名だけど、今、流行りのジビエ料理と飲んでみたくなりますね」

 先にやって来ていた平 仁兵衛と右近龍二も東にご無沙汰の挨拶をしながら、又鬼の裏ラベルを凝視した。
「アルコール添加の本醸造ですか。日本酒度+8とは、けっこう辛口です。囲炉裏で焼き燗にすると、美味しいでしょうねぇ」
 平が店の棚の鳩徳利に目を移すと、龍二も冷蔵ケースの食材を物色しながら
「キレはよさげですが、酸度2.0は肉料理に負けないな。脂がのった肉料理の後口を、スッキリさせますね」
と飲みたそうに喉を鳴らせた。

 すると、テーブル席の女性たちが
「それ、飲んでみた~い」「鹿肉や馬肉の料理もあったら、お願いしま~す」
とはばかることなく手を挙げた。遠慮会釈のない二人組に、東は太郎と苦笑いしながら答えた。
「近頃の女子は酒豪揃いって、うちの得意先から聞いてっけど、お姉ちゃんたち、この酒には物語があってよう。それを聞きゃ、オシャレなジビエ気分じゃ飲めねえぜ」
 ほろ酔いで頬を赤くしている女性たちに東が話しかけた時、玄関の鳴子が音を立てずに、ゆっくり揺れた。

 扉から覗いた顔に女性たちが「キャッ!」と声を上げた。平と龍二も、むさくるしい鬚面の男に純米酒の盃を持つ手を止め、息を呑み込んだ。
「あの……東 長介さんはぁ、こちらさ、いらすてますか?」
 東北訛りの田夫野人という表現がふさわしい男は、白髪交じりの長い髪と伸びた鬚の中で鋭い眼光を放っている。着ているのは、野暮ったい革ジャンパーとくたびれたジーンズだった。
 東が「おう! こっちだよ、半兵衛さん」と手招きすれば、古臭い名前に店内から嘲笑が洩れた。
 男は客の視線を気にしながら前傾姿勢で歩み、静かにカウンター席へ腰を下ろした。ほとんどの客が気づいてないが、半兵衛の足音がしなかったことに平と龍二は顔を見合わせた。

 東は酒屋前掛けのポケットから使い込んだ手帳を取り出し、そこに挟んでいた一枚の写真を取り出した。赤く染まった雪の中で倒れているツキノワグマのそばに、猟銃を持った半兵衛が立っていた。
「この人が銘酒“又鬼”のモチーフになった、白神半兵衛さんだよ。れっきとして継承された、本物の秋田県の猟師だ。蔵元から半兵衛さんが上京するって話を聞いて、ポンバル太郎に誘ったのさ」
 紹介する東へ半兵衛は「そげえ、大ぇした者じゃねえす」と謙遜して、太郎や平たちへ深々とお辞儀をした。
「お初さ、お目にかかります。田舎育ちの粗忽者だもんで、無作法があっだら許してくだっせ」

 純朴そうな目尻に皺を寄せた半兵衛が姿勢を戻すと、太郎の鼻腔は、かすかに血生臭さを感じた。だが、血糊が衣服に付いてるはずはなく、おそらく、体に染みついた臭いだろうと思った。
「マタギってぇから、荒々しい人かと思いきや、律儀な方じゃねえですか」
「ああ、そうだろ。マタギをやってるこの写真とは、別人に見える。好々爺って顔だよ。今夜の半兵衛さんは都内で働いてる息子さんに会いに来た、おのぼりさんだからな。ポンバル太郎へ、息子さんを呼出してんだよ。ちょうど、あの女の子ぐれえの歳だよな」
 東がテーブル席へ顎を振ると、女性たちは、おっかなビックリ顔で半兵衛へ続けざまに訊ねた。

「あのう……さっきの怖い顔が、嘘みたいですね」
「息子さんが東京にいるってことは、猟師を継いでないんですか?」
 言いにくいことをハッキリ口にする二人に、半兵衛へお銚子を差し出す東が「まいったね。こりゃ」と洩らした。
 酔って忖度も斟酌もない女性たちに太郎が呆れると、平と龍二も
「銀平さんがいなくって、よかったですねぇ」「激昂してるとこだよ」と胸を撫でおろした。その安堵を消すかのような声が、客席から聞こえた。

「マタギは殺した動物をまたいで、さばくから、そう呼ぶんです。野蛮だね。あなた方も、ジビエなんて、食べない方がいいですよ」
 カウンターの面々がいっせいに振り返ると、丸顔にロイド眼鏡の太った男が眉根を寄せて立っていた。店の奥に座っていたその男は半兵衛に近づき、右手に持っている名刺を差し出して
「さっきから会話を耳にしてましたが、あなたの代で、猟師は廃業すべきです」
と名乗りもせず、冷淡に言った。男の連れも、半兵衛を見る視線が険しい。

 訝しげに名刺を横から覗き込んでいた東が、「NPO法人 動物愛好連盟?」とつぶやいた。平は、めんどくさい輩が割り込んできたと目顔で太郎に伝えた。
 龍二が傍若無人な男を諫めようとした時、半兵衛の口鬚が動いた。
「あなたは、分かっでねえ。マタギは、“又鬼”って書ぐんだ。俺たちは代々、命ある動物を鬼の心になって殺して食べて、生きる糧にしてきた。そして、また殺しては食べる鬼を続けてきた。だがら、又鬼なんだ。でも、それは、ずっど昔から俺たち猟師が、山の神様に許しをもらった伝統と文化だ。都会に暮らしてる人に、マタギの意気地は分かんね」

 遠い目をして語った半兵衛に、男が食ってかかりそうな勢いで近づくと、カウンターの向こうで太郎が語気を強くした。
「お客さん! 名乗りもしねえのは、失礼じゃねえかな」
 一瞬、怯んだ男は、顔を赤くしながら答えた。
「おっと、これは失敬。つい、興奮してしまって。私は、動物愛好連盟の広報部にいる天野 と言います。実は先日、北東京の猟友会と、里に下りてきた鹿の駆除について揉めましてね。彼らは、何頭もの鹿を谷に追い込んで撃ち殺す、残酷なマタギなんですよ」
 天野は客席へ振り向くと、ほかの客たちへ訴えかけるように声を高くした。

 つられて頷く客たちに反して、東は天野を鼻で笑った。
「けっ! あんた、何も知らねえんだな。半兵衛さんみてえな本物のマタギはよ、たった独りで深い山中を5日以上歩いて、獲物を探すんだ。途中で不慮の事故に遭って、死んじまっても、家族はマタギを捜しちゃいけねえって決まりだ。つまり、そん時ゃ、山の神様に召されたってわけよ。だからよ、大勢で害獣を駆除する猟友会とは、生きざまが根本的にちがうんだよ!」
 初めて耳にするマタギの覚悟に平や誠司が唸ると、テーブル席の女性たちは顔色を失くしていた。それでも、天野は食い下がった。
「いや、いずれにしても、山の生き物を殺していることに、ちがいはないですよ! 動物は、知能的に人間より弱い存在なんです。だから、保護すべきなんですよ……それに、白神氏の息子さんは東京に出られて、マタギを継いでないわけでしょ。それって、父親のような殺戮者になりたくないからでしょう」
「な、なんてこと、抜かしやがる! おめえみてえな人の心も分からねえ奴に、動物愛護が聞いて呆れらぁ!」

 一触即発の雰囲気を割るように、玄関の鳴子がやかましく踊った。店の灯りに光るのは、青く剃った火野銀平の頭だった。
「何でぇ、あずま屋の大将! 俺のお株を奪っちまうような物言いじゃねえか……けどよう、天野さんだっけ? さっき聞こえた話じゃ、あんたの言ってんのはキレイごとだ。狩りに生死を賭けてるマタギにとっちゃ、問答無用なイチャモンつけだよ」
 銀平の風体に呑まれる天野に、龍二と平が笑いをこらえると、太郎も「いいぞ、銀平」と小声でけしかけた。
 こわもての銀平に臆したのか、天野は表情をこわばらせながら抗弁した。
「な、何ですか。私だって、動物愛護に命をかけてるんですよ!」
 いつの間にか、天野の後ろには連れの男女が並び、客席に不穏な空気を漂わせている。

 このままじゃ埒が明かないとばかりに、太郎がカウンターから出ようとした時、龍二がいらだつ銀平を抑えるかのように口を開いた。
「じゃあ、お訊きしますが。もし、武器を持ってない天野さんたちが、山で熊にバッタリ出くわしたら、どうします?」
 言いよどむ天野の代わりに、仲間の二人が答えた。
「こっちが大勢なら、大声を上げて、熊を山へ追い返します」
「一人の時は、熊を興奮させないように、後ずさりしながら逃げる」
 続けて、平が問いかけた。
「それでもダメだったら? 襲われちゃいますけどねえ」
 答えに窮する男女をかばう天野が
「それなら、戦うよ。動物愛護の立場でも正当防衛だ」
と即答すれば、必死で笑いをこらえなる東が
「武器は、持ってねえんだぜ。あんた、素手で勝つ自信があるのかよ? 熊殺しの空手家じゃあるめえ?」
と念押しした。

「う、うむむ……」と口ごもる天野たちに、客席からも失笑が洩れた。
 静かになる天野たちに東は留飲を下げたが、それでも引き上げようとはしない。
 しかし、肝心の半兵衛は素知らぬふうで、又鬼の酒瓶を前にして、ため息を吐いた。その時、玄関から天野たちに向けて秋田訛りが響いた。どことなく、半兵衛の声音に似ていた。
「あなた方の立派な名刺を熊に見せたら、素直に山へ帰ぇるんじゃねすか……それに、僕はマタギを継がねぇわけじゃね。いずれ帰郷して継承するにしでも、今は都会を知っておきてえんです。親父には、まだ言ってねえっすけどね」
 彫りの深い目元が半兵衛とそっくりな若者の言葉に、銀平と誠司が吹き出した。平と龍二が手を叩くと、東が
「こりゃ、鬼の子は、また鬼だねぇ……そうかぁ、天野さんが山へ入る時の武器は名刺かぁ」
と大袈裟に皮肉った。  ぐうの音も出ない顔の天野たちは、太郎へ会計をすると、唇を噛んで帰って行った。
 水を打ったように静まるカウンター席に息子が座ると、半兵衛は「元気だか?」とだけ発して、盃を手渡した。
 太郎が「今夜は、鬼が仏になりそうですね」と又鬼の瓶の栓を開けると、東は嬉しげに親子へ酒瓶を傾けた。
 二人は無言で盃を空けると、息子が口を開いた。
「親父……東京には、鬼より怖えぇ人間もいっぺえいっから、やっぱりマタギの方が俺には向いてそうだ」
 半兵衛の嬉しげな目頭に、光る物がにじんだ。
「鬼の目にも、涙ですか」
 平と龍二だけでなく、客席の全員が、そうつぶやいていた。