Vol.238 江戸切子

ポンバル太郎 第二三八話

 札幌の時計台に風花が舞って大雪山が初冠雪した夜、昨日は小春日和だった東京まで寒波は迫り、気温は急転直下した。
 8℃まで冷え込んでいる西新宿の思い出横丁では、モツ煮やおでんと熱燗をすする男たちが背中を丸めていた。その片隅で、八百甚の仕事をすませた青砥誠司は後輩の深川五郎と一杯引っかけると、珍しく都内のハシゴ酒へ繰り出し、3軒目にポンバル太郎の扉を勢いよく開けた。

 客が引けた店内に激しくぶつかる木枡の鳴子が響くと、カウンター席の高野あすかが椅子から飛び上がるようにして振り返った。隣から大吟醸を注ごうとしていた平 仁兵衛も、手元がすべりかけたデキャンタに血相を変えた。
「ふぅ~」と胸を撫でおろす平の横で冷や汗をかいているあすかが、五郎によっかかる赤ら顔の誠司をたしなめた。
「脅かさないでよ! このデキャンタを割ったりしたら、命が縮んじゃうんだから!」
 誠司へ眉を逆立てたあすかは、ゆるめた視線をカウンターの隅に座る作務衣姿の男へ移した。白髪混じりの長髪が、饅頭のように結われている。どことなく、杜甫や李白といった中国の文人墨客のような雰囲気を醸していた。

「大丈夫だよ、あすかさん。ガラスの器が壊れるのは、当たり前のことだ」
 多摩の純米酒と小鉢の芋煮を口にする男の声は、しゃがれて低く響いた。物静かな口調だが、只物じゃない印象のギヌロとした双眸に五郎は見覚えがあった。それも、ごく最近の気がした。
 男を誰何している五郎に、落ち着いたようすの平が老眼鏡を鼻先に押し下げ、表情を凝視した。
「誠司君は、いつになく酔っ払ってますねぇ。どうかしましたか?」

 ほろ酔いの誠司なら照れ臭そうに視線をそらすはずが、今夜は飲み過ぎて、目つきが据わっている。
「そうなんすよ。2軒で、生ビール2杯に、ホッピー4杯。焼酎のお湯割り3杯。でもって、今から日本酒なんて、俺は、明日に差しつかえるから、よした方がいいって止めたんすけどね……今日、休憩時間に、築地の商売仇と酒器の自慢話でやり合ったんですよ。たあいもねえ揉め事なんすけど」
 五郎のため息混じりな返事を、誠司は張り倒しそうな勢いでさえぎった。
「こ、この、この野郎! よよ、よけいなことを、ペッ、ペラペラと喋ってんじゃねえよ!」

 いつになく居丈高な誠司は、ふらつく足取りでカウンター席へ座り込んだ。その目の前に、厨房から現れた太郎が仕込み水の四合瓶をドンと据えた。寄せた眉根が、情けないと叱っている。
「今夜のおめえには、これしか飲まさねえ! 誠司、呂律が回ってねえじゃねえか……ヤケ酒ってわけか? 目を覚ましな!」
 語気の強さとは裏腹に、初めて見せた誠司の醜態を太郎が心配していることを平は察した。かつて銀平がポンバル太郎の新参者だった頃、同じように酒器の口論で築地のくせ者社長を敵に回し、火野屋の看板が危うくなった記憶があるのだ。

 それを知らないあすかが、酒臭い誠司を見下げるように腐した。
「つまらない口喧嘩なんでしょ? まったく、銀平さんと似た者兄弟ね」
 途端に、誠司の酔眼に生気が戻った。
「つまらねえたぁ、大好きなあすかさんでも聞き捨てならねえ! 銀平の兄貴がイチオシの、あの松源の江戸切子を馬鹿にしやがる奴は許せねえんだよ」

 宙を泳いでいた誠司の視線は、厨房前の棚にうやうやしく飾られている江戸切子の青い冷酒グラスに刺さっている。たとえ常連客でも、その使用を許されるのは誕生日だけで、太郎が簡単に頭を縦には振らない逸品である。
 松源の江戸切子と聞いた平が得心顔で太郎と頷き合った時、カウンター席の丸髷の男が穏やかに口を開いた。
「ほう、嬉しいねえ。そのグラスは、わしが灘の辛口酒を好んだ若い頃の作品だ。キレのいい、すっきりとした味わいにふさわしい“米つなぎ”って切り込みの細工なんだ。愛着のあった盃なんだが、ポンバル太郎の開店祝いに欲しいと、江戸切子を習いに来てたハル子さんにせがまれて、酔った勢いでやっちまったんだよ」

 男のほころぶ目尻に、平と太郎が「そうでしたねぇ」と声を合わせると、動揺したあすかは箸でつまんだ芋煮をカウンターに転がした。
「えっ、じゃあ、ハル子さんは切子細工も学んでいたの!? 太郎さん、私、何も聞いてないわよ。だって、この松屋源蔵さんは無形文化財なのよ。もう怖ろしくて、あの盃を誕生日に使えなくなっちゃうよ」
 それに続いて、カウンター席へ座ろうとする五郎もひっくり返りかけた。
「お、思い出したぁ! 電車の中吊り広告で、このオヤジさんを見やした。今、伊勢勘デパートでやってる大江戸文化展だ。誠司の兄貴。この方は松源の棟梁こと、松屋源蔵さんすよ」

 腰が抜けそうな五郎を今度は誠司が支えて、席に落ち着かせた。
 酔いがさめたように瞠目している誠司に、松屋は
「ありがとうよ。この老いぼれの江戸切子を気に入ってくれて」
と仕込み水を注いだ。

 緊張からか、ひと息に飲み干す誠司へ、太郎は確かめるように訊いた。その瞳が、鋭い光を宿している。
「おめえが揉めた築地の商売仇てぇのは、やっちゃばで高級フルーツを専門に扱ってる忠岡屋の若社長じゃねえのか?」
「そ、その通りでさ。でも、どうして太郎さんが奴を知ってんです?」
 誠司の問い返しに、五郎だけでなく、自分の江戸切子が火種と悟った松屋も耳をそばだてた。
 太郎はあすかにも聞かせるように、かつて銀平と忠岡の起こした騒動を語った。

 お互い日本酒ツウながら、虫が好かない間柄で、昼飯後の些細な自慢話から、酒器のこだわりをけなし合った。銀平が誇示するのは、ポンバル太郎にある松源の古風な江戸切子のグラス、一方「スパークリング大吟醸をワイングラスで」がモットーの忠岡はバカラ風のエキゾティックな切子こそ、海外で流行る酒器だと言い張った。
 ついには胸ぐらのつかみ合いになり、仲裁に築地の元締め・葵屋の伝兵衛が入って事を納めたのだった。
「血の気が多いのは鉄火場ゆえでしょうが、あの後も忠岡社長は、伝兵衛さんが銀平さんの肩を持ったと周囲に毒づいていたそうです」
 まばたきひとつせずに聞いていた松屋に向かって平が付け加えると、あすかが宙を仰いで「バカみたい!」と悔しげにつぶやいた。

 カウンターへ突っ伏している誠司の肩を抱く五郎が
「そんな事があったとは、露ほども知らなかったすよ。でも、癪に障る野郎だな。銀平さんの弟分と知って、今度は誠司さんに突っかかったわけか……兄貴、気を静めて下さいね」
と唇を噛みながら諫めた。

 その時、誠司の傷心を煽るような、高飛車な声音が玄関から聞こえた。
「よう! 八百甚の若ぇの。おめえが自慢してた松源の切子グラスってのを、拝まさせてもらいに来たぜ。もっとも、この店の話は、以前に火野屋の銀平から聞いてっけどよ」
 遠慮会釈のない物言いをする中年男が、玄関から顔を覗かせていた。今風のショートカットに若作りした細身のスーツ姿だが、腹回りはいささか苦しそうである。

 まさか、忠岡本人がやって来るなど思いもよらなかった面々は絶句したまま。背中で甲高い声を聞いた誠司だけが、腕まくりしながら振り返った。
「この野郎! 飛んで火に入る夏の虫たぁ、あんたのこった!」
 鬼の形相で立ち上がる誠司に、忠岡はひるみながらも、ほくそ笑んだ。
「手を出しちゃ、ダメ!」とあすかが叫んだ瞬間、誠司の襟首を松屋の手が座席へ引き戻していた。
「今夜は、もう冬だ。夏の虫なんざ、いやしないよ。だが、わしの腹の虫は治まりそうにない……あんた、忠岡さんだね。松源の江戸切子を腐したそうだが、その理由を教えちゃくれないか。ちなみに、わしは松屋源蔵って者だ」

 松屋の三白眼のような睨みに、奇襲のつもりが逆襲に遭った忠岡は青ざめたが、カウンターを囲む全員の敵視に負けじと店の中へ乗り込んだ。
「そもそも、江戸切子の文様は日本で生まれたわけじゃないでしょ。矢来切子、格子切子とか、いろんな切り込み細工は、英国のカットガラスに用いられていた技術を取り入れられたものじゃないですか。あれは、明治時代に殖産興業の指導で英国からやってきたエマヌエル・ホープトマンがカット技術を教えたから、江戸の切子は今みたいなデザインになったわけですよ。てことは、これからも欧米と融合していくスタイルが、私は本筋だと言ってるんですよ」
 得意げに知識をひけらかす忠岡に、誠司が食ってかかった。
「誰にご託を並べてやがる、この野郎! 無礼にも、ほどがあらぁ!」
「おお、怖い。まるで狂犬じゃないですか。これだから、築地の若い者はセンスが上がらないんですよ。私はスパークリング日本酒をバカラ風の冷酒グラスに注いで、そこへ、うちの最高級イチゴやサクランボを落として楽しむのが好みでしてね。日本酒ジャーナリストとして活躍してる高野あすかさんなら、同じ意見だと思いますが?」

 顔の知れたあすかの存在に気づいた忠岡は、酒と食の専門家を引っ張り出すことで、松屋を黙らせようとした。
 ところが、あすかは詭弁を弄する忠岡を制して、太郎へ棚の奥の切子グラスを取ってくれと目顔で伝えた。そして、太郎が渡した青い切子グラスを右手に、カウンターに置かれた透明のデキャンタを左手に持った。
「ねえ、社長さん。いっぱしの啖呵を切られましたけど、じゃあ、この二つの酒器をどう見ますか?」

 俺を試すつもりかと、忠岡は鼻白んで答えた。
「右手の物が、火野屋の銀平ご推薦の古風な江戸切子。そして左は、私が好きなスタイルで、新進気鋭の若手作家によるカット技術ってとこかな。タイプがまったくちがうよ。このデキャンタなら、ロゼワインにも似合いそうだねぇ」
 余裕綽々の忠岡は、全員が黙り込むと悦に入った表情を浮かべた。だが、堰を切ったように太郎が吹き出すと、平のウホッホ笑いが爆笑を誘い、五郎は「ついに、馬脚を現しましたよ!」と誠司の背中を叩きながら腐した。

 狐につままれたように全員を見回す忠岡に、松屋がゆっくりと立ちはだかった。団子のような髷姿は、白眉な賢人のようだった。
「江戸切子の職人はな、それぞれに得意な文様を持ってんだ。だから、唯一無二の作品が生み出されていく。あのデキャンタは、わしが先週こしらえたんだよ。ありがとうよ、気に入ってくれて。新進気鋭の若い作家じゃねえけどよぉ」
 満面の笑みを押し出す松屋に、富岡は面子をつぶされ
「く、くっそう! だ、騙しやがったな。お、憶えてろよ、八百甚の若僧!」 
と尻尾を巻くようにして逃げ出した。

「あらぁ、これだから、築地の若社長はくせ者が多いって言われるのよねぇ。負け犬の遠吠えじゃないの」
 揺れる鳴子の音が、あすかに拍手をしているようだった。
 だが、透明のデキャンタを松屋の作品と知らなかった誠司と五郎は、あらためて形とカットガラスに魅了された。
「江戸の職人の中でも、そう簡単に切子職人は手の内を見せなかった。わしらの粋ってのは、昔から隠し持ってきたからこそ、時代に応じて形を変えながら生きてんだよ。決して、西洋のガラス文化の亜流じゃない」
 無形文化財の匠の名言に平が深い謝意を表して頭を下げると、あすかも頷きながら、それを手帳に書き留めた。
 粗塩を盛った木枡を手にする太郎は、誠司を誘って玄関を開けた。
 勢いよく塩を撒いた途端、火野銀平の声が聞こえた。
「うおい! 太郎さん、いきなり塩たぁ、どういうこった!?」
 慌てて言い訳しようとする誠司の口を手で押さえながら、太郎は
「お前に憑いてる、厄介な奴を追い払ったんだよ。それより、今夜はおめえ好みの客が来てるぜ」
と店内へ押し込むと、唇に指を当てて誠司へ囁いた。
「誠司、今夜の事件は内緒だぜ。江戸切子は隠し持っとくのが、粋だからな」
 片目をつぶる太郎へ、酔いのさめきった誠司が深くお辞儀をした。
 秋の夜長に包まれるポンバル太郎に、憧れの松屋源蔵へ気づいた銀平の声が轟いていた。