Vol.245 一生盃

ポンバル太郎 第二四五話

 日本晴れとなった成人の日、3℃に冷え込んだ都心は昼下がりから風花が舞った。
 年々、成人数が先細っているだけに、先行きを懸念する酒造業界は渋谷や六本木で日本酒イベントを催し、温かいお燗酒をふるまっている。女性向けの麹米を使った甘酒は「飲む点滴」のコピーでPRし、お肌や美白に効果があると謳っていた。

 ポンバル太郎では、グルメサイトのレビューを見て来たらしき成人ホヤホヤの女子グループがテーブル席に詰めている。晴れ着やドレス姿ではしゃぐ女子たちにオヤジ客は鼻の下を伸ばし、カウンター席から見惚れている青砥誠司はグラスの酒をこぼしかけた。
「馬鹿野郎、今夜はそんな浮かれ気分じゃねえだろ!」
と誠司の頭を引っ叩いた火野銀平だけでなく、カウンター席に並ぶ平 仁兵衛や高野あすかの表情も曇っている。

 太郎に頼まれて、祝い鯛とそれを飾る朱塗りの大盃を持って来た銀平は、ため息ばかりで言葉がなかった。一升の酒が入る赤い盃には、銀平の祖父・火野銀次郎の名前が金箔で記されている。
「おう、銀平。気風の良さが売り物の築地者がしけた面してんじゃ、新成人が腐っちまうぜ。それによ、一番辛ぇのは、アメリカへ帰らなきゃならねえジョージ本人じゃねえか」
 たしなめる太郎だが、彼自身、包丁を捌く手の動きは心なしか乱れている。
 心境を察するカウンター席のビジネスマンたちは、刺身の切り方がいつもより不揃いだとつぶやいた。

「……出逢いがあれば、別れがある。IT時代にも変わらない、人間のサガですねぇ。だからこそ、ジョージさんと知り合えた幸せを、皆さん、ずっと忘れずにいられます」
 聞こえよがしな平の語気に、あすかが潤む目尻を小指で押さえながら頷いた。
「ジョージも、ギリギリまで私たちに切り出せなかったみたい。ふた月前に、アメリカの本社から辞令があったそうなの……きっと、みんなとポンバル太郎で会うたび、口ごもってしまったんでしょうね。彼は日本人の慮りとか、慈しみを身に着けてしまったから。最近は、日本舞踊も習ってたのよ」

 しんみりするカウンターの雰囲気に、誠司が声音を高くした。
「と、ところで、太郎さん。肝心のジョージはどうしたんで? 今夜が送別会ってなぁ、もちろん本人は知ってやすよね?」
 約束の時間は7時だが、すでに15分を回っていた。
 築地のやっちゃばと親しい園芸市場から仕入れた花束を、誠司は用意していた。ありきたりな洋花とちがい、珍しい寒桜に寒牡丹、それを取り巻く色とりどりの菊の花など、和花をふんだんにあしらっていた。
 生け花だけに萎れちゃいけないと、店を手伝う剣が冷水を張ったバケツに入れた花はいっそう開いた気がする。
「誠司さん、やるじゃん! この花束、全部、日本酒の銘柄に使われる花ばかりじゃない。それって、まさに日本酒のジャーナルもできるようになったジョージさんへの華向けだよね。でも、照れくさいんじゃない。ジョージさんって、実は、シャイだもんね。今夜は、酔っぱらって来そうな気がするよ」
 剣が花束へ鼻先を突っ込んで匂いをかいだ時、玄関の鳴子が勢いよく響いた。

「おお! まだジョージは来てへん、間に合うたわ。アメリカへ帰ると聞いて、ビックリしたがな。それで、あいつに、日本で最後に飲む記念の酒を探しとってな。去年の夏にジョージは、貴重な福岡県の伝統酒を気にかけとった。それを、今夜持って来たんや。殿様やった黒田家ゆかりの酒やで」
「中之島はんのお店は品切れでしたよって、うちの割烹“若狭”の在庫を持って来ました。あても胸がキュンと寂しゅうなって、一緒に来てしまいましたわ」
 扉に立つ中之島哲男と仁科美枝の関西弁に、客席がいっせいに振り向いた。
 二人とも大島紬の和装を纏い、お似合いの熟年カップルといったムードに、成人式を迎えたばかりの女子たちから、ため息が洩れた。

「それにしても、ジョージさんが勉強熱心なのは分かるけど、何で福岡の、黒田家ゆかりの酒なんだろ?」
 剣が小首をかしげて銀平に大吟醸の新酒を酌すると、あすかがハッと表情を変えた。
「……そう言えば、ジョージが日本舞踊を習い始めた頃、黒田節の唄の意味を教えて欲しいって訊かれたわ」
「へぇ、あの『酒は呑め呑め、呑むならば』って唄ですかい?」
 思わず口走った誠司に、平が感心して言った。
「ほう、誠司君が黒田節を知ってるとはねぇ」
「あっ、築地・葵屋の伝兵衛会長が、めっぽうお気に入りでして。今でも宴会の席じゃ、ひと節唸りながら、踊りをやるんでさ。八百甚に入るまでは黒田節なんて知らなかったけど、会長から、唄の意味合いをみっちり仕込まれやした」
 自慢気な誠司に、カウンター席の隅に並んだ中之島と美枝が「へぇ、粋やないの」と褒め声を合わせた。

 先輩面を見せる銀平が、誠司の純米吟醸のグラスを飲み干して言った。
「ほう、じゃあ、俺に聞かせてみろよ」
 すると、あすかが口を挟んで、銀平をとがめた。
「素直じゃないわねぇ。知らないんだったら、教えてくれって頼めばいいのにさ」
「てやんでぇ! 兄貴分の俺が、簡単に頭下げるわけにゃ、いかねんだ! 築地の兄弟分の世界に口を出すんじゃねえよ」
 またぞろ、犬猿の仲が始まったと思いきや、玄関の鳴子の揺れた音を客席のどよめきが消した。

「キャ~、カッコいい!」「侍みたいな外人さんだ!」
 後ろ髪を縛り上げ、薄っすらと顎鬚をたくわえた色白な横顔に、太郎が目を凝らしてみるとジョージだった。ふだんのスーツに長髪と打って変わった羽織袴、あたかも浪人侍のような風体が異彩を放っている。
 カウンター席の面々が、江戸時代贔屓のジョージらしい趣向に、硬くなっていた表情を崩した。
「皆さん、こんばんは。私の送別会にいらして下さり、本当にありがとございます」
 胸の前で合掌するジョージの瞳はいつになく光を宿し、悲しみを我慢するかのように下唇を噛んでいた。

「ヤンキー野郎! 侍の恰好しといて、メソメソするんじゃねえよ。さっさと、こっちへ来やがれ! めでてえ席に、飛びっきり上等の祝い鯛がお待ちかねだ!」
 銀平が鬱積した気分を晴らすかのように、朱色の大盃に飾った尾頭付きの焼き鯛を持ち上げると、店内から歓声が起こった。ジョージも感激するはずと、誠司と剣はスマホを構えて撮影した。だが、画面の中のジョージは、強張った顔で立ち尽くしている。
「そんなに恐縮しなくたって、いいんだよ。この鯛は、俺からの贈り物だ」
 太郎が手招きしても、ジョージは身動き一つしない。目を見開いた表情は徐々に赤みを帯びて、火照っていた。

「どうしたの? 鯛は、大好きだったじゃないの?」
「太郎さんが、竈で焼いた塩釜蒸しの天然鯛ですから、そりゃ、美味しいですよ」
 気遣うあすかと平の言葉も、ジョージの耳に入っていないようだった。すると、中之島が思い出したかのように、手元の一升瓶を持ち上げた。
「そうや! この酒と一緒に食べてみいな。ジョージが欲しがってた上撰酒“黒田節”や……それにしても侍の姿に黒田節とは、でき過ぎやなぁ」
 美枝も相槌を打ちながら、ジョージに向ってしなを作った。

 声を呑み込んでいたジョージの右手が祝い鯛を、左手が黒田節の酒瓶を指さした。
「酒はぁ、呑めぇ呑め~、呑むならばぁ~。日の本一の、この槍を~。呑みとるほどに呑むならばぁ、これぞまことの黒田武士~」
 突然と唄い出したジョージに、客席はあっけに取られた。そのコブシは浪曲師も顔負けの上手さで、日本舞踊の師範でもある美枝が「これは、ほんまもんどすわ!」と口を丸くした。
 唖然としている銀平に、雪駄で摺り足をしながら近寄ったジョージが「その盃を下さい!」と頼んだ。たじろぐ太郎が鯛を取り出すと、ジョージは朱色の盃を手にしながら、再び黒田節を唸り始めた。
「峰のあらしか 松風かぁ~。訪ぬる人の琴の音かぁ~。駒をひきとめ立ち寄ればぁ~。爪音たかき、想夫恋」

 みごとな腰つきと足さばきで踊るジョージに剣が
「ジョージ、凄いじゃない! いつの間に、腕を上げたの!?」
と拍手した。
 片目をつぶって剣にほほ笑んだジョージは顎を振って、壁に掛けてある酒造りの櫂棒を取ってくれと伝えた。あすかの実家の蔵元にあった、古い竹製の櫂棒だった。
「あっ! それを槍に見立てるつもりね! ステキじゃない!」
 あすかの声が昂じると、櫂棒は客たちの頭上でクルリと回った。
 巧みな手つきで櫂棒を扱いながら大盃を抱いて踊り終えたジョージが、店内の客たちに深いお辞儀をすると、割れんばかりの拍手と声援が響いた。

「いやぁ、素晴らしい! さすがイベント企画もされるジョージさん、今夜の演出を図っていたのですか? 憎いですねぇ」
 脱帽する平の隣で、泣き出しそうなあすかは鼻と口元を押さえながら拍手喝采を送った。
銀平と誠司が「遅刻は、帳消しだ!」とジョージの肩を両側から抱くと、中之島が黒田節の栓を開けて、美枝に「盃へ、なみなみ注いでおやり」と手渡した。
カウンター席のど真ん中に、太郎が祝い鯛と朱色の一升盃をしつらえ、いよいよジョージのお別れの舞台はととのった。
居合わせた客たちがジョージの帰国を耳打ちするにしたがい、店内は水を打ったかのように静まった。すうっと息を吸い込むジョージの呼吸さえ、聞こえた。
「実は、黒田節を舞ったのは偶然なのです……まさか今夜、最後の心残りだった銘酒・黒田節を口にできるとは。それに、初めて覚えた日本舞踊の黒田節に登場する朱塗りの大盃もあるなんて、身震いするほど驚きました……ポンバル太郎で出逢ったあなた方との不思議な御縁、人を思いやる慈しみの心を、私は死ぬまで忘れません。誠に、ありがとうございました!」

 頭が膝につくほどのお辞儀をしたジョージは一升盃を両手で抱えると、一気に飲み干そうとしたが、ふと手を止めて神棚に飾られたハル子の遺影を見上げ、つぶやいた。
「そうか……ハル子さんが酒も盃も、呼んでくれたのですね。これ、皆さんと一生お付き合いできる、かための盃にします。皆さんで、回し飲みしましょう……ハル子さんが、そう言ってますよ」
 盃の中の酒に、太郎、銀平、平、誠司、あすかの頷く笑顔が揺れた。
「ようっし! 今夜は火野銀平、一世一代の奢りでぇ! ポンバル太郎にある酒を、ぜ~んぶ買い占めるぜぇ。それでよう、朝までみんなとジョージの壮行会でぇ!」
 外まで響く客たちの歓声に、来るのが遅れていた菱田祥一、右近龍二と手越マリも「やったぁ! ごっつあんで~す!」と万歳しながら飛び込んで来た。
 滂沱するジョージの涙が、一生盃の黒田節を甘酸っぱい美酒にしていた。