Vol.246 三三九度

ポンバル太郎 第二四六話

 大寒を迎えてマイナス5℃の冷気に包まれた東京だが、空は澄み渡っていた。
 陽が昇ると、スカイツリーの遠景には富士山の稜線がクッキリと現れ、薄氷の張った皇居の御堀は白い靄を漂わせている。
 まさに酒の寒造りには打ってつけの季節だが、今年のような冷え過ぎは禁物で、酒の発酵が進みにくく、杜氏や蔵人はモロミの温度管理に気が抜けない。そんな中、ようやく大吟醸や純米大吟醸の新酒が登場し、ポンバル太郎の冷蔵ケースに色とりどりのレッテルを並べている。
 入り切らない酒なのか、カウンターに5本の一升瓶が並んでいる。だが、目を凝らすと、その銘柄はすべて同じ「蔵娘」だった。高野あすかの実家で、東日本大震災の罹災によって廃業した高野酒造の銘酒だった。

「まさか、もう一度、口にすることができるとはねぇ。長生きはするもんですねぇ」
 開店前にやって来たものの、まだ、お預けを食っている平 仁兵衛が嬉しげに目尻をほころばせた。せっかく復活した蔵娘を太郎は常連たちで祝おうと、招集をかけていた。
 中学校から帰宅して店の準備を手伝っている剣は、蔵娘の緑色の一升瓶を丁寧に拭きながら太郎へ訊いた。
「あすかさん、どんな気分なのかなぁ……銘酒は復活したけど、経営者は都内のIT企業なんだろ?」
 ダシを味見する小皿を口に止めた太郎は
「ほう、いっぱしなことを言うじゃねえか。最近は、経営の思わしくない酒蔵のオーナーが、新進気鋭の企業に変わるのもありがちだ。日本酒ジャーナリストのあすかだって、それは承知してるだろ。何より、ご先祖様からの銘酒が甦ったってことが一番じゃねえかな」
と答えながら、成長した息子への喜びを笑顔に浮かべた。剣に感心する平も、無言で頷いた。

 厨房の裏口から威勢のいい声が響いて、剣は危うく一升瓶を倒しそうになった。
「太郎さん、お待たせ! 今日は、火野屋には上物が入らなくってよう。築地の中を探し回ったぜ。それでも10kgはあるてぇ、福島産のアンコウだ。鍋には最高だよ!」
 銀平は大きなトロ箱をカウンターに置きながら、外で冷え切った体をブルッと震わせた。
 以前、あすかの出身地・福島県相馬市の郷土料理であるアンコウ鍋に蔵娘がピッタリと聞いた太郎は、酒が入荷した今朝一番に、銀平へ極上のアンコウを頼んだのだった。

 デップリと太ったアンコウに目を丸くする平の横で、銀平が蔵娘のレッテルのヒゲ文字に見入った。
「ほう~、これが復活した蔵娘かい。だけどよう、酒の味はどうなんでぇ?」
 瓶の口開けは、あすかが来てからだと太郎が言いかけた時、準備中の札を掛けたままの玄関から声がした。
「大丈夫と思うわ。従兄の武志君が仕込んだ酒だもの……彼、秋田の蔵元の副杜氏を辞めて、蔵娘を造ってくれてるの」
 問わず語ったあすかはカウンターに並んだ蔵娘を目にすると、安堵とも不安ともつかないため息を吐いて、銀平の隣に腰を下ろした。
 銀平の鼻先を、薄化粧の匂いがくすぐった。派手な香りをさせないのは、日本酒ジャーナリストとしての姿勢である。
「なんでぇ……いつになく、しおらしいじゃねえか。ちったぁ喜んでもいいんじゃねえか? おめえの実家の酒が復活したんだからよう!」
「わ、分かってるわよ、嬉しいに決まってるじゃないの……」

 先細る声を呑み込んだあすかの肩が、心なしか落ちたように見えた。気にする平が、新しい盃と熱燗した山廃純米酒のお銚子を差し出したが、あすかは首を小さく横に振った。
「あすかさんにすれば、複雑な心境ですねぇ。喜んでいいのか、悲しんでいいのか。私たちが、とやかく言うべきじゃないと思います。でもねぇ、蔵娘ファンだったお客様が、また美味しく飲んで下さるのが、何よりの宝じゃないでしょうか」
 拒まれたお銚子を平は手酌しながら、盃をゆっくり傾けた。熱燗の湯気が、ふいに玄関から吹き込んだ風に揺れた。
「その通りばい! 銀平、あんたはデリカシーなかばい!」
「まあまあ、マリさん落ち着いて。銀平さんだって、悪気があって言ったわけじゃないっすよ」
 半開きの扉から開店時刻を辛抱できずに入って来た手越マリを、両脇から右近龍二と菱田祥一がなだめた。途端にカウンター席は埋まり、蔵娘の復活披露会の準備が整った。

 気を取り直したあすかは蔵娘の一升瓶を手にすると、ゆっくりと立ち上がった。
「皆さん、今夜は蔵娘の復活を祝って頂いて、心から御礼を申し上げます。私も、両親も、ご先祖様も、そしてお客様も喜んでいます。どうぞ、これからも蔵娘をご愛飲お願いいたします……それから、私は日本酒のジャーナリストを辞めます。たとえ経営者はちがっても、実家の銘酒が復活した以上、ほかの銘酒を語って生業を立てるわけにはいかないから」
 口ごもるあすかに、今しがたのため息の理由を全員が悟った。束の間の沈黙が、店内を包んだ。

 誰もが押し黙る中、腕ぐんでいる太郎が切り出した。
「じゃあ、どうするんだい?」
 はっと顔を持ち上げたあすかは、一瞬、太郎を見返して
「日本酒を楽しめる、小料理屋をやろうかと思ってます。どこか、都内の下町で……資金も少しは貯めてるし」
とためらいながら答えた。

 突然のカミングアウトに唖然とした銀平が、声を裏返しながら叫んだ。
「下町ったってよう、門仲だって深川だって今は人気の場所で、店賃も馬鹿になんねえぞ! やめとけって! おめえは所詮、お嬢様育ちなんだからよう。インテリジェントな仕事が似合ってるじゃねえか。ほかにだって、ライターの道はあんだろ?」
 いつもすったもんだの二人だが、銀平の口調にはあすかへの好意が表れていた。
「やい銀平! おまえの安直な意見なんて、あすかちゃんは百も承知しとると! ばってん、せっかく日本酒の世界に通じた身たい。料理屋をやればこれまで付き合った蔵元しゃんの酒をいっぱい扱えて、お客様にもいろんな話ができるばい。あすかちゃん、よかよ! あたしの知り合いの不動産屋に物件ば探してもらうけん、まかしんしゃい!」
 マリが腹回りと見分けがつかない大きなバストを叩くと、言い返そうとする銀平がひるんだ。

 だが、飲食の情報や酒の理論に詳らかなあすかでも、料理人の経験はない。三十代半ばから始め、ようやく一人前になった太郎からすれば、素人独りでこなせる世界じゃないと直言できるが、あすかの心境を察して、たしなめの言葉を呑み込んでいた。むろん、それは太郎が胸に秘めている、あすかへの愛情でもある。
 マリの意見に賛成とばかりに、蔵娘のふるまいを待ちかねている菱田が
「じゃあ与和瀬、あすかさんの転職祝いに、さっそく酒を開けようじゃないか」
と喉をゴクリと鳴らした。
 つられるように龍二が太郎に「栓を開けても、いいっすか?」と一升瓶へ手を伸ばした時、黙考していた平が隣からわき腹を突いて、囁いた。
「あすかさんが働くなら、もっと身近な店があるでしょ」

 小首をかしげた龍二に剣が「まったく、鈍いんだから」とつぶやけば、「あ!」と声を洩らして、聞えよがしな大声を発した。
「太郎さん、それならさぁ! まずはポンバル太郎で、料理の仕込みや店のやりくりを教えてあげれば? つまり、あすかさんが、ここで働くってわけです」
 唐突に力が入った龍二の提案に、太郎は「あ、ああ……まあな」と生返事した。あすかも、ドギマギしてうつむいた。
 すかさず剣が、全員に冷酒グラスを配りながら
「うちだったら蔵娘を置けるし、ほかの銘酒だって気兼ねせずに扱えるじゃない。僕からお客さんの好みの料理や酒、忙しい時の注文のさばき方もご指導いたしますよ」
と片目をつぶって、戸惑っている太郎を黙らせた。

 平と剣の腹の内に勘づいたマリは
「そ、その手があった! そりゃ、あたしも大賛成たい!」
とあすかの背中を大仰に叩いた。菱田も察したらしく、手にする冷酒グラスを引っ込めて「後は、あすかさんの気持ちしだいだな」と答えを待った。
 厨房の鉄瓶がじらすかのように、シュンシュンと湯を沸かせていた。
 全員が固唾を飲む中、あすかはもどかしげに口を開いた。
「太郎さん……私、足手まといじゃないですか?」

 太郎の返事に期待する面々をくじくように、銀平が口を挟んだ。
「そうなりゃ、器量良しで世間の人気もあるからよう、あすかが女将と思われるんじゃねえか? ハルちゃんが、焼きもちを焼くぜぇ」
 途端に、あすかは神棚にあるハル子の遺影を一瞥して、表情を曇らせた。
 場の空気を読めず、せっかくの妙案を台無しにする銀平の太股をマリが捻り上げた。
「いてて、痛えじゃねえかよ! 何しやがんでぇ!」
「もう、よかばってん、おまえは黙っときんしゃい!」
 またぞろ揉める二人の声を制するように、玄関から大阪弁が飛んで来た。

「いつまでごっちゃごちゃと、めんどくさい話をしてんねや! おおよその話は、玄関先でコートを脱ぎながら聞いたで。太郎ちゃん、お前さんの気持ちはどうやねん? 料理屋の女将になりたいっちゅうあすかちゃんを、一人前にできる自信はあるか?」
 太郎が中之島哲男を大阪から呼んだ理由は、彼とあすかの実家である高野酒造の浅からぬ縁がポンバル太郎とのきっかけを作ったから。いわば、中之島は太郎とあすかの縁結びの神でもある。
 中之島が発した鶴の一声に、太郎が神棚を仰ぎ見ながら、まいったなとばかりに苦笑した。
「……初めて打ち明けるけどね。実は、ハル子はこの店を開く前、日本酒のジャーナリストになりたかったんだよ。もっとも、あすかほどのセンスはなかったけどね。きっと、生きてあすかと知り合っていたなら、それこそ意気投合して、姉妹みたいに仲良くなったんじゃねえかなって思った。そんなあすかを応援できるなら、ハル子も喜んでくれると思う。でも俺自身、まだまだ修行が足りねえから……こんな腕前でよけりゃ、うちで頑張ってみなよ」

 あすかに続く太郎のカミングアウトに平や龍二、菱田、マリが絶句すると、剣は「母ちゃんが、ジャーナリストぉ? 嘘だろう?」と栓を開けた蔵娘の瓶を手から落としそうになった。
 ハル子と気心の知れた仲だった銀平ですら、茫然として、中之島と顔を見合わせている。
 ただ、真実を知ったあすかは硬い表情をゆるめて、コクリと頷き「よろしくお願いします」とだけ答えた。
 信じられない顔の剣から中之島が蔵娘を取って
「ほなら、乾杯しようやないか! 蔵娘の復活とあすかちゃんの新しい門出を祝う酒や! おっと、師匠になる太郎ちゃんと弟子のあすかちゃんは、特別な盃で乾杯してもらうで。ほれ、剣ちゃん、用意を頼むでぇ!」

 中之島の目配せで、正気に戻った剣は
「そ、そうか! 中之島さんは、やっぱり最高の師匠だよ!」
と店の隅から脚立を持って来た。何事かと全員が見つめる中、剣は神棚の隅に置かれた桐箱をうやうやしく取ると、カウンターのあすかの前に置いた。
 見事な墨筆の“夫婦盃”の字が映える杉箱を開けると、金箔と銀箔を張った大小の漆器の盃が重なっていた。
「お、おお! これは松尾大社の夫婦盃ですねぇ」

 声音を高くする平に、全員が杉箱を覗き込んだ。あすかは、まばたきを忘れて見入っている。
「……ハル子が生前に松尾大社へ参詣した時、手に入れて、使わずじまいで逝ってしまったんだよ。そのことを知ってるのは、剣だけだ。まったく、親をだし抜くたぁ、ふてえ奴だ」
 嬉し困り顔の太郎に、常連たちの冷酒グラスを蔵娘で満たした中之島が言った。
「わしも、カミングアウトするでぇ。実はな、剣ちゃんといつか、こんな日が来たら、太郎ちゃんとあすかちゃんに夫婦盃を持たせようと話してた……つまり剣ちゃんは、あすかちゃんに、新しい母ちゃんになって欲しいっちゅうわけや!」
 いきなり直球勝負する中之島に、マリは「やったばい!」と菱田と抱き合い、「ま、マジかよう~」と落ち込む銀平を、龍二が「まあ、あすかさんが女将になれば、毎日、会えるじゃないですか」となぐさめ、平は「ようやく、私の念願が叶います」と満面の笑みで冷酒グラスを持ち上げた。

 口火を切った中之島はガラ携をポケットから取り出し、電話をかけ、ひと言ふた事しゃべると、頬を真っ赤にしているあすかに差し出した。
 ガラ携から聞こえたのは、流暢な京言葉だった。
「ほんまに、おめでとうさんどす。もしも、女将の仕事で迷うことがあったら、どうぞ、遠慮のう、あてに相談しよし」
 祇園“若狭”の女将である仁科美枝の声も、喜びにあふれていた。
 その時、乾杯のタイミングを見計らっていたかのように、玄関扉が大きく開いた。剣が気づくと、すでに開店時間を15分も過ぎていた。
 鳴子の音とともに、やっちゃばの青砥誠司の声が響いた。 

「ちょいと待ってくだせえ! おいらを忘れちゃ、困りやすぜ。それに、今、店に入っちゃいけねえと引き留めてたお客さんたちも、太郎さんとあすかさんを祝いたいってんでさあ! さあさ、皆さん、入ってくだせぇ!」
 一気に店内へなだれ込んできた客たちには、築地・葵屋の伝兵衛や銀平の叔母である屋形船宿の松子といった面々も含め、入り切れないほどである。
「おやおや、さっそく、あすか女将のお仕事ができましたねぇ。お客様のおもてなしを、頼みますよ」
 あすかを冷やかす平の横で、蔵娘をヤケ酒する銀平がマリの大きな胸に泣きついた。「しょうがなかね!」と力いっぱい抱きしめてやるマリに、菱田が拍手した。

 大成功とばかりに握手とハグをする中之島と龍二を見つめる太郎が、あすかに向き直って言った。
「蔵娘で、三三九度の酒を受けてくれるかい……ただし、俺とじゃ、“さんざん苦労”するかもしれねえけどな」
 オヤジっぽいダジャレに、あすかは涙を浮かべる目頭を押さえながら
「はい、ハル子さんを見習って頑張ります。よろしくお願いします」
と震える指で銀盃を持った。
 太郎が金盃を手にすると、脇に立った剣が蔵娘を二人に注ぎながら言った。
「ポンバル太郎に亭主と女将と、跡取りが揃ったね。これからも、お客さんを幸せにする店にしようね、父ちゃん! そして、新しい母ちゃん。ステキな薄化粧のままでいてね」
 目と目を合わせる二人の盃に、今夜も、賑わう客たちの笑顔が揺れていた。

■作者追記
 日本酒連載小説「ポンバル太郎」は、今回を持ちまして執筆を終えます。
 4年間近くのご愛読をいただき、心より御礼を申し上げます。
 会員読者の皆様が、今後も地酒蔵元会と日本酒を末永く愛して下さることを願っています。
 ありがとうございました。

 高槻 新士

■作者追記
 日本酒連載小説「ポンバル太郎」は、今回を持ちまして執筆を終えます。
 4年間近くのご愛読をいただき、心より御礼を申し上げます。
 会員読者の皆様が、今後も地酒蔵元会と日本酒を末永く愛して下さることを願っています。
 ありがとうございました。

 高槻 新士