Vol.71 盃洗

ポンバル太郎 第七一話

 打ち水に湿ったポンバル太郎の玄関先を、浅草寺の四万六千日で買ったほおずきが彩っている。オレンジ色の実と濃い緑の葉が夜風に揺れると、茎に吊るした風鈴も涼やかな音を奏でて、道行く人たちの目尻をほころばせた。

 そのようすを、久しぶりに大阪からやって来た中之島哲男が窓越しに眺めている。隣の席では、高野あすかがペンを動かしながら、ひやおろしののみきり情報を中之島から聴き出していた。秋号の酒雑誌のネタ作りである。

 二人が座るカウンターの上にも、今しがた剣の摘んだほおずきを一輪挿しに飾っていた。
「浅草のほおずき市は、江戸の夏の歳時記。そう言うたら、ハルちゃんは毎年ほおずき市に行ってたな」

 ひやおろし談義をいったん止めた中之島に、ぬる燗の山廃純米酒をカウンター越しに注ぐ太郎が答えた。
「ええ、あいつの夏の楽しみは剣を連れたほおずき市と隅田川の花火。それと、富岡八幡宮の骨董市でした。今年も夏休みに入った途端、剣は朝から深川まで出かけちまって。ハル子の馴染みだった骨董商がいて、この一輪挿しも剣が見つけて来た物ですよ」

 九谷焼風の緑と黄色の釉薬とほおずきの色が際立つ一輪挿しに、あすかは感心して目を移した。
「これを剣君がねぇ……親の血だわ」

 あすかは純米大吟醸のグラスを口にしながら、テーブル席の注文を訊いている剣と太郎の顔を見比べた。その時、酒を飲み干させるかのように、玄関の鳴子が勢いよく音を立てた。
やって来たのは雑誌記者のジョージで、連れの金髪女性に早口な英語でしゃべっている。やけに気色ばんでいるジョージに中之島が
「ジョージは、何を興奮してんのや? わしゃ、英語はさっぱり解らん。すまんが、あすかちゃん、通訳してくれへんか」
耳の痛そうな中之島に頼まれたあすかは、カウンター席の端に座ったジョージに聞き耳を立てながら、彼が繰り返す言葉に気づいた。
「なるほどねぇ……中之島さん、ジョージは東京オリンピックの招致で流行った“オ・モ・テ・ナ・シ”のことでやり合ってるみたい。察するところ、彼女はアメリカから来た記者かしら。名前は、ナンシーさんですって」

 女性のインテリ風の美貌や背筋の伸びた姿勢に、あすかは同業の匂いがすると付け足した。ジョージの口調は俄然、熱を帯びていたが、それに問いただすようなナンシーの英語も毅然とした物言いに思えた。ナンシーは、ジョージの言い分に納得がいかないようだった。

 太郎はジョージたちの会話を理解したらしく、得心顔でしばらく聴いていた。そして厨房の棚から絵柄の入った鉢を取り出すと、水を張ってジョージたちの前に置いた。
会話を制されてナンシーは憮然としたが、ジョージは周囲の空気を読んでいなかったと気まずげに口をつぐんだ。対照的な二人の表情が、草木をあしらった鉢の水面に揺れていた。

 ナンシーが、いきなり日本語をしゃべった。
「これは何? 丼? この水を、私に飲めと言うこと? しゃべり過ぎて、ノドが乾いただろうってジョーク?」

 ナンシーは怪訝な顔で太郎を一瞥すると、腹いせにジョージへ詰め寄った。
答えに窮するジョージもその艶やかな青い鉢を目にするのは初めてらしく、あすかや中之島に助けを求めるまなざしを送った。

 丼に似ている南天柄の青磁の鉢は、枝を模した高い脚を持っていた。いびつな格好の鉢だが、アメリカ人にはどれも丼に見えるにちがいないと、あすかと中之島は無言で頷いた。
「これも、僕が富岡八幡宮の骨董市で見つけた“盃洗(はいせん)”だよ。たぶん、明治時代のだって聞いたよ。こうやって使うんだ」

 答えた剣が、ナンシーの肩越しに右手を伸ばした。鉢とは真逆な色の白磁の盃が、カウンターに一つ置かれた。太郎はそれを待っていたかのように、お燗した徳利をジョージに手渡しながら
「まずはレディー ファーストだろ」
と片目をつむった。ぬる燗のいい香りにジョージは表情をゆるめたが、ナンシーは一つしかない盃をブルーの瞳に映しながら剣に告げた。
「ヘイ、ボーイ! 盃が一つじゃ、足りないわ」
「いいえ、これでいいんです。イッツライトです、ナンシーさん」

 ナンシーに動じない剣は盃を手渡すと、ジョージへ酒をせかした。そして身振りで飲み干させると、盃を鉢に入れさせ「プリーズ、ウォッシュ」と命じた。

 初めての体験に目を丸くするナンシーだったが、洗った盃はジョージに渡して酒を注ぐのだと剣から教えられ、ようやく意を得たとばかりにOK!OK!と繰り返した。
「これは、とても、おもしろい遊びですね!」

 ナンシーは、喜色満面でジャブジャブ洗った。
「あっ、あっ……無粋なやっちゃなぁ」
困り顔で言いよどむ中之島に変わって、あすかが立ち上がってナンシーの横に座った。そして流暢な英語でしばらく語りかけると、お手本に盃をゆるゆると泳がせるように洗った。
「オウ! ビューティフル。しなやかな動きね」
「そう、それがオ・モ・テ・ナ・シの心なの。味わうだけじゃなく、目で見ても美味しいってことね。日本人の他人への思いやりが、盃洗にはあるの。あの方は、お酒のオモテナシのプロよ」

 あすかが腰の引けている中之島に振り向くと、ナンシーは手を合わせてぎこちなくお辞儀をした。金髪美女に引きつり笑う中之島の背中を、剣がいたずらっぽい笑みで押し出した。

 ジョージがほっとした表情を浮かべると、中之島は咳払いをして語り始めた。
「ナンシーさん。かつて日本人が盃洗を使った頃は、お互いに腹に持ってる言い分を吐き出して、洗い流すっちゅう意味もあったんですわ。そのためには飲み食いだけやのうて、場所や時間、色合いやムードなど、五感でもてなすのがルールやった。この盃洗も、単に器を洗って相手に渡すちゅう礼儀だけやなしに、いろんな形、色や柄で楽しんでもらうのが、オ・モ・テ・ナ・シでっせ。ほれ、こんな風に白い盃が、南天の花みたいに見えるわけや!」

 自慢げな口ぶりに変わった中之島が、白い盃を盃洗の底に沈めた。それをカウンターから斜め見すると、白い盃は赤い南天に咲く花のように調和して、一幅の絵になった。
「これは、まさにアート! ステキなデザインね。中之島さん、ありがとうございます」

 初耳の大阪弁にも昂揚したのか、小躍りするナンシーが中之島へ走り寄って頬にキスすると、ジョージと剣がハイタッチを交わした。
「おっ、おお! こちらこそ、おおきに」

 中之島がうろたえていると、聞き慣れた野太い声が扉から飛んで来た。
「師匠! ブロンドのお姉ちゃん相手に、お楽しみじゃねえですかい!?」

 銀平が頬にキスマークを残す中之島に、目をしばたたいた。
 ブロンドのお姉ちゃんと聞いて、途端にナンシーの顔色が曇ると、あすかは踵を鳴らして銀平に詰め寄った。
「野暮な奴! せっかくのオ・モ・テ・ナ・シを潰しちゃったわよ! ナンシーさん、中之島の師匠、続きは奥のテーブル席でやりましょう」
 あすかが盃洗を抱えると、ナンシーも銀平に「オ・モ・テ・ナ・シ」とつぶやいて、眉をしかめた。
「へっ? なんでぇ、そりゃ?」
 解せない顔の銀平に中之島が吹き出しながらテーブル席へ移ると、太郎が剣と顔を見合わせて言った。
「まったく、本当にモテないねぇ。正真正銘の“おもてなし男”だ」
 堪えきれないあすかたちの笑顔が、盃洗の中に揺れていた。