Vol.78 燗どうこ

ポンバル太郎 第七八話

 赤い曼珠沙華の花が、通りに並ぶ鉢植えに艶っぽさを添えている。花びらを撫でる夜風はひんやりと初秋めいて、居酒屋へと向かう客たちの顔がほころんでいた。

 ひと心地ついた右近龍二も、今夜は秋上がりの純米酒をぬる燗で楽しむかとポンバル太郎の扉を開けた。タイミングよく、カウンター席の真ん中に燗酒派の平 仁兵衛の背中が座っている。

 だが、その両脇から平を挟むようにして、菱田祥一と火野銀平が何かに取り付いていた。
「平先生。こりゃ、相当な年季がへえってますよ。売れば、けっこうな値段になるんじゃねえの?」
「とんでもない! 先生、こんなレトロな逸品を手放しちゃいけませんよ。こいつで燗をつけると、本当に旨いんだから」

 二人の問答に、テーブル席の客たちも気もそぞろである。龍二が覗き込むと、くすんだ色合いの銅製の箱が置いてあり、丸い穴には古めかしいチロリが二本差してあった。

 龍二の瞳が光を帯びた。
「あっ! 本物の燗どうこじゃないすか。しかも、炭火を入れる火熾し口も付いてますから、これは明治から大正時代の物ですよ。平先生のお宝ですか?」

 確かに、燗どうこは風通しの調節穴もほどこされ、いこした炭火で湯煎をするように細工されている。その凝った造りと懐かしい雰囲気に、テーブル席の年配客が眼鏡を押し上げ、物欲しげに見つめていた。
「いやいや、お宝なんてたいそうな物じゃありませんよ。彼岸にアトリエの片づけをしてたら、押入れの奥から出てきましてねぇ。断捨離じゃないですが、私の家で眠ってるよりは太郎さんに使ってもらえればいいなと思って、持って来たわけですよ……でも、チロリも錆びで黒ずんじゃってますしねえ」

 平が手に取った銅製のチロリには、緑色の緑青も吹いていた。
「大丈夫ですよ、平先生。酢で洗えば、一発でピカピカになりますから」

 厨房から現れた太郎の手には、米酢の瓶とペーパータオルが握られていた。

 常連やテーブル席の客たちが注目する中で、太郎が燗どうこを洗い始めた。強い酢の臭いに若い客たちは鼻をつまんだが、彼らも目を疑うほど、燗どうこの汚れは見る間に落ちていった。

 その美しい赤銅色の姿が露わになっていくと、銀平や菱田、平は感嘆の声を揃えた。打ち出した鱗のような形の模様の中に、みんなの驚いた表情が光っている。
「見事ですねえ。しかし、これでもまた、時がたてば黒ずんだり錆びたりするわけですね」

 平の口惜しげな声に、太郎が胸を張って答えた。
「そりゃ、先生。酒のお燗に使ってないからですよ。毎日燗をつければ、酒の力で錆びないすよ。それに、きちんと洗浄しますからお任せください」

 平はほっとした表情で太郎から磨いたばかりのチロリを受け取ると、その表面に映っている後ろの龍二の曇り顔が気になった。
「龍二君、どうかしましたか?」
「いえ……燗どうこには、ほろ苦い思い出がありまして。土佐には打ち刃物や打ち銅器があって、これとそっくりなチロリをうちの親父も持っていました。僕の中学時代の親友の父親が銅器職人で、その人の造る名器でしたが、最期は職人がいなくなって会社をたたんでしまいました。親子とも土佐を離れてしまい、それから音信不通のままです」

 龍二の言うには、土佐の打ち銅器には感性と体力が大事で、無駄な材料や加工をほどこさない、自然環境にとても優しい製造方法。専用の金型がなく、小回りと融通で手造りする希少な美術品でもあると自慢した。

 いくぶん力を帯びている龍二の言葉が、目の前の燗どうこの肌に響いているようだった。
「けどよ、この平先生の燗どうこだって、てえした打ち銅器じゃねえか?」

 銀平が打ち出したチロリの表面を指でなぞると、なめらかに広がる凹凸が指に吸いつくようだった。
「いやぁ、蔵の奥でほっぽらかされていたような物ですから、そんな土佐の名器とは比べ物にならない代物ですよ」

 銀平からチロリを渡された菱田が、それを耳にしながら、ためつすがめつ見つめた。
「先生、底に銘が打ってありますよ」
「ほう、そうですか。太郎さんが酢で磨いてくれるまでは、黒ずんで、まったく見えませんでしたからねぇ。どれどれ……土佐山田……“濱新”って彫ってありますな」

 途端に、龍二が弾かれたようにカウンター席から立ち上がった。
「はっ、濱新!? 本当ですか? ちょっと、見せてください!」

 我を忘れて平から銅のチロリを奪った龍二は底の銘を見つめると、声を失くして震えた。
「親友だった濱田の親父の新蔵さんが作った銅器です……これ、なんですよ」

 興奮する龍二の声に、なりゆきを見守っていたテーブル席の客たちもあんぐりとしたまま、冷酒グラスを止めていた。
「おいおい! マジかよ、こんなことってあるかねぇ」

 菱田はもう一度、自分の目で濱新の刻印を確かめ、龍二を気遣って背中へ手を置いた。しかし銀平は、どことなく落ち着いた面持ちで龍二に言った。
「そういやぁ、龍二。おめえ、今年のお盆は忙しくて、土佐へ帰ってねえんだろ?」
無言でうつむく龍二に、平も問わず語った。
「お彼岸も帰省していないなら、墓参りはご無沙汰でしょう。きっと、お父さんが待ってるって、暗示じゃないかねぇ」
 店内がしんと静まると、太郎がおもむろに肴の皿を龍二の前に置いた。
「偶然だけどよ。今晩は、旬の土佐の戻りカツオを用意してたんだよ。龍ちゃんが、今年は帰省してないのを知ってたからな……それも、この平先生の燗どうこも、お前の親父さんが用意したんじゃねえか、戻って来いってな。特に、塩たたきには、土佐のぬる燗だろ」
 太郎は、磨き上げた燗どうこにチロリを戻すと、高知の辛口本醸造を注いだ。燗どうこに竈でいこした炭火がくべられると、分厚い塩たたきの横でゆっくりと湯煎がぬくもった。
酒から立ち昇る湯気が、潤みながらも笑っている龍二の瞳に揺れていた。