Vol.88 棒ダラ

ポンバル太郎 第八八話

 神田や深川界隈の老舗蕎麦屋に、大晦日の予約が殺到する時期になった。

 今年は信州や東北で収穫された秋の新蕎麦の実が上出来で、すこぶる風味がいいとポンバル太郎の客たちが噂していた。日本酒好きは、蕎麦好きでもある。

 ポンバル太郎の杉板の壁に、年越し蕎麦の献立はない。その代わりに、今年からは「日本酒に合う、おせち料理」の予約が貼り出された。近頃、休日になると高野あすかとデパ地下を物色し人気のおせちを目にしている剣が
「父ちゃん。日本酒に合うおせち料理をやろうよ」
と太郎に催促したのだった。

 本格的な仕出し料理の経験がない太郎は迷ったが、それを聞いた平 仁兵衛は、大阪の中之島哲男に監修を頼み、太郎は指導を受けたのだった。

 太郎は昨日初めて、三段重のおせち料理を試作した。その味見を兼ねて、今夜はお客さんにサービスでふるまうことにした。

 重箱の蓋を取りたくてうずうずしている常連たちが今や遅しと待ち構えているが、太郎はお預けを言い渡している。
「太郎さん、まだかねぇ。あたしゃ、もう腹ぺこたい。熊本は辛し蓮根やムツゴロウやら酒の肴がどっさりあるけん、おせちに使うて欲しかよ」

 年輪を感じさせる古い重箱を見つめながら、手越マリはその器が平の父親が作った輪島漆器だろうと思った。渋い朱色の漆と金銀の箔が、カウンター席に並ぶ面々の食欲をそそった。
「へぇ! 意外じゃねえか。熊本は正月も焼酎じゃねえのかよ。球磨焼酎と馬肉がおせちかと思ってたぜ。俺はやっぱり煮はまぐりやアワビ、伊勢海老だな。ハンペンとかの練り物も欲しいぜ。野暮ったい田舎のツマミは、江戸っ子の酒のおせちには似合わねえ」

 隣りのマリを冷やかしながら太郎がどんな献立を作ったのか気になる銀平は、むろん江戸前の魚介類を期待している。
「まあまあ、それじゃあ皆さんの郷土料理を並べるだけになるじゃないですか。私は、太郎さんだからできる献立がいい。贅沢な食材じゃなくても、日本酒を司るポンバル太郎らしさが欲しいですねぇ」

 三人ともが手前勝手な好みを口にすると、剣が小気味よい足音を響かせて二階から降りてきた。冬休みを前にして、また店を手伝うのにやる気満々なようすだった。
「みんな、欲張りだもんねぇ。でもさ、確かにちょっとずつ全国の珍味も入ってるんだけど、メインの肴はみんな知らないと思うよ。関西にしかない献立だから」

 それは自分の口にもすごく合うと、剣は絶賛した。小学生がうまいという関西のおせちで、しかも酒の肴になる珍味……テーブル席の客たちも想像がつかないと小首を捻った時、玄関の扉が開いて、着物に和外套をはおった中之島哲男が現れた。その後ろには、真っ赤なロングコートの高野あすかが立っていて、右手に荒縄で吊るした大きな包みをぶら提げていた。

 それを一瞥した銀平は
「気が早えな。もう、正月用の荒巻鮭を買ったのかよ」
と飽きれ顔で純米酒のグラスを傾けた。
「なんね。中之島さんば来るのを、太郎ちゃんは待っちょったとね。なるほど、その関西ならではの肴はあんたが太郎ちゃんに教えたやなかね。いったい、なんね?」

 重箱を開けたくて辛抱できなくなっているマリが、つばを呑み込みながら中之島に訊いた。
「はいはい、皆さんお待たせ。剣ちゃん、レッツオープンや!」

 中之島がカウンター席に座った途端、剣がカウンターの三段の重箱を開けた。そこには新潟のバイ貝のかんずり煮、京サバの手毬寿司、秋田のいぶりがっこ胡麻油炒め、土佐の酒盗とチーズのあえ物など、珍味をひと工夫した肴がギッシリと並んでいる。

 そして、どの重箱の真ん中も飴色に煮つけられた塊がたっぷりと盛られていた。
「な、なんだこりゃ? マグロの角煮にしちゃ、色が悪いな」

 銀平が目を凝らした時、その顔の前であすかが手に提げていた塊の紙包みを取った。
現れたのは、骨と皮だけの胴体になった大型魚の干物だった。顔つきも、まるで魚のミイラである。
「うわわ! な、なんでぇ、薄気味悪い! 脅かすんじゃねえよ、あすか!」
「えっ!? うそ~! 銀平さん、魚のプロなのに知らないの? これ、荒巻鮭じゃなくて、そのおつまみの元になってる“棒ダラ”だよ。もっとも、私も知らなかったから中之島さんに聞いた受け売りだけどさ」

 奇怪な棒ダラに、テーブル席の客たちは目をそむけたり、あんぐりとしたりだった。
「まあ、ひと口食べてみいな。見た目はブサイクやけど、うまいでぇ!」

 重箱へ迷い箸していたマリは食欲に負けて、おっかなびっくりで手を出した。だが、ひと口食べると目尻をほころばして「おいしいばい!」を連発。その飴炊きしたような甘さが、九州の卓袱料理の味に似ていると絶賛した。

 中之島も指先でつまんで味見すると、厨房から現れた太郎に親指を立ててOKを出した。

 そして、訝しげな表情を覗かせる銀平の肩に手を置いた。
「さすがに火野屋でも、棒ダラは扱ってないのんか。棒ダラは、江戸時代よりずっと前に塩サバと同じように日本海側から京都に入った干物や。東北や北海道でタラがぎょうさん取れたから、保存食として北前船で関西に運ばれて、お正月料理やお盆料理の一品として食べられたんや。棒ダラはごっつう硬いから、水で戻して煮るしか食べ方はない。その典型的な料理が京都の芋棒(いもぼう)ちゅう、おばんざいや」

 京野菜の海老芋と棒ダラをじっくり煮込むおかずだと、中之島は言った。

 ぬる燗の山廃純米酒と食べた平は、カチカチの干した棒鱈が煮物になるとみちがえるような柔らかさへ変わっていることに唸った。

 太郎も菜箸で棒鱈の煮つけを手の甲に取って味見し、誰にともなく語った。
「この棒ダラの煮物には上方の粋というか、もったいない精神が生きてる。関西らしい始末をする食文化だ。上方に近づくにつれ日数が経った干物は傷んじまうから、棒鱈の身は少しずつ削られ、減っていったんだよ。だから、そんなふうにグロテスクな格好なんだ」

 棒鱈にハマってしまったマリは、箸を止められずに太郎へ言った。
「へえ、太郎ちゃんは関東の生まれ育ちやのに、棒鱈にくわしかねぇ」
「実は、俺も……ハル子から聞いた受け売りだよ。あいつ、京都に行くのが好きだったから棒ダラをよく食べてた。干したのを初めて目にしてビビッた俺に『私もおばあちゃんになったら、棒ダラみたいにシワシワになるかもよ』って高笑いしてたよ。それに年末になると、棒ダラを入れた日本酒に合うおせちを作ってみたいって、言ってたんだよ」
 太郎に見つめられる剣が「えっ! そうなの?」と驚くと、カウンターを包む空気が静まった。棒鱈を食べる客たちの口元が、ゆっくりした動きになった。
 中之島も、剣にほほ笑みながらつぶやいた。
「そういえば、ハルちゃんは芋棒が大好きやった。そやから、剣ちゃんの口に棒ダラが合うんかもしれんなぁ」
 重箱の色とりどりの肴に囲まれて、棒ダラの煮つけはツヤツヤと光っていた。