Vol.89 玉割り

ポンバル太郎 第八九話

 忘年会の駆け込み需要を狙う新宿や渋谷の繁華街では、居酒屋が飲み放題や値下げの呼び込みを繰り広げている。

 ポンバル太郎にも日頃は見かけない若いビジネスマンたちが多く、この時ばかりは上司に無理強いされ、ぎこちない手つきで冷酒やお燗酒を飲んでいる。太郎は顔見知りの年輩客からテーブルへ呼ばれ、初めて日本酒を口にする若者へ香りや味のちがいを解説していた。

 だが、カウンター席の隅に座る二人組の男性は、いささかちがっていた。
新人らしき部下は媚びるでもなく冷淡な表情で、五十歳前後の薄毛の上司から酌を受けても軽く口をつけるだけ。二人は親子ほどの年の差で、上司がほぼ一人で飲んでいる二合徳利は二本目になっていた。
カウンター席の真ん中に座る高野あすかは、上司の男をポンバル太郎で何度か見かけていた。
「若い人があれぐらい飲んでくれたら、日本酒業界も元気になるんだけどなぁ」

 新年を前に気分一新したのか、ボーイッシュなショートカットへ変えたあすかの声が店内の賑わいに掻き消された。イメージチェンジしたあすかの端正な美しさに、隣席の平 仁兵衛の頬はいつになく火照っているようだった。
「近頃の若者は日本酒を飲まないんじゃなくて、飲めないそうです。食事が欧米化して日本人の体質も変わったんでしょうか……お米の国なのに、情けないですねぇ」

 いつまでもノンアルコールビールを飲んでいるテーブル席の若い男に、平はなげかわしいと視線を向けた。純米酒の盃を飲み干した平にあすかが気づいて酌をした時、隅の席から呂律のもつれた声が聞こえた。
「佐藤君、ちゃんと盃を空けろ。それが目上の人から酒を受ける時の礼儀ってもんだ」

 説教がましい言葉だが、上司は叱っているふうでなく、横顔はどこか気を遣っているようだった。

 だが部下の答えは、平の顔を曇らせた。
「えっ、でも僕、日本酒は苦手って、いつも言ってるじゃないですか。野口主任、そろそろウーロン茶に変えますよ」
「またか……君さぁ、いいかげん日本酒を飲めるようになれよ。うちの得意先には、地酒が好きな客が多いんだからさ。俺ばっかりが相手してたんじゃ飽きられるし、いい歳だから年末年始の連チャン接待はキツいんだよ。それでなくても若僧の客にペコペコしなきゃならないんだから」

 年齢的に見て野口は窓際で干されている身らしく、酔いにまかせて愚痴った。

 途端にうんざりした表情へ変わった佐藤が立ち上がり、声を高めた。
「それって、仕事ですか? お言葉ですが、僕はお客の酒の相手をするために入社したわけじゃないです。しかも、残業つかないし……すみませんが、僕、今日は家でやることがあるので、これでお先に失礼します」

 悪びれることなく抗弁した佐藤がバッグを手にして出て行く背中を、平とあすかは呆気にとられて見つめていた。
「まったく、正直なのか不遜なのか……」

 野口が長いため息を吐き出すと、なぐさめ程度に垂れている前髪が寂しげに揺れた。そして、平とあすかの視線に気づいて苦笑いした時、太郎の声が聞こえた。
「また帰られちまったね、野口さん。さっきの佐藤君で三人目か……いやはや、おたくの会社の人は生真面目で、下戸が多いですねぇ」
「生真面目? 冗談じゃない、ありゃ単なるお子様だ。まったく、人事部も酒が飲めるか飲めないか、面接で訊いてもらいたいよ。三十年前の俺の入社面接じゃ、キッチリ質問されたのにさ。どうして酒の飲み方まで指導せにゃならんのかねぇ、バカバカしい」

 野口がお銚子を勢いつけて盃に注ぐと、冷めた酒がカウンターにこぼれた。
平が同情するかのような目元で、つぶやいた。
「しかも頭ごなしじゃなくて、上手に教えないとダメですなぁ」

 野口が頭を抱えて黙り込むと、あすかは彼の前に広がった酒をおしぼりで拭きながら佐藤が飲み残した盃の酒を悲しげに見つめた。

 その時、聞き慣れた江戸っ子の言葉が店内の賑わいを破った。
「まったく、もったいねえことしやがる。だけどあんたも、あんただぜ。野口さんだったな。俺は三度とも目にしてるけどよ、ちったあ飲ませ方を考えなよ」

 ふいに聞こえた火野銀平の太い声に、カウンターを囲む面々がいっせいにふり向いた。

 火野屋の黒いTシャツに上等の革ジャンをはおった銀平の後ろに、同じ格好をした大柄の若者が立っていた。頭は流行りのツーブロックカットで、二人して並ぶと危なっかしい風体だった。
「ちょうどいいや。うちにも似たような奴がいてね。こいつは、魚河岸見習いの五朗。日本酒はまったく飲めないてんで、今夜はごまかし方を指南してやるんだ。野口さんも、参考にすりゃいいぜ」

 酒豪に見える巨漢の五朗が下戸と知って驚くあすかと平に、太郎が「五朗ちゃんは饅頭なら、三十個は軽いそうだ」と耳打ちして笑った。

 はにかんでいる五朗を、銀平は野口の隣に座らせた。こぼれた酒を拭いたカウンターの残り香に、五朗は眉をしかめた。それに気づいたあすかが、銀平に訊いた。
「日本酒の匂いまで嫌いな人に飲み方の指南って、銀平さん、いったいどうする気なの?」
「へぇ、さすが日本酒ジャーナリスト。いい所に目をつけたじゃねえか。日本酒が飲めないのは、麹臭が苦手って場合が多いそうだ。つまり、山手線の酔っ払いオヤジの酒臭さだな。初めて日本酒を口にする時、あれがトラウマになるわけだ。だったら、味も臭いも薄い酒に慣れることから始めりゃいい」

 銀平が冷蔵ケースにある仕込み水の一升瓶にニンマリすると、黙っていた太郎は得心顔で動いた。仕込み水を三本のピッチャーへ多め、中ほど、少なめに注ぎ、それぞれに一合の純米酒を用意した。
「ええっ? それって、日本酒の水割り? ……そりゃ、水で薄めるんだから味も匂いも弱くなるわよ。でも、こんなまちがった飲み方は接待の場じゃ許されないわよ」

 眉をしかめるあすかに、銀平は胸をそらせて言い返した。
「へっへぇ! どっこい、それを許してもらえる仕掛けなんだよ。いや、許すどころか、これをやれば感心されて、商談もうまくいくかも知れねえぜ、野口さんよ」

 腑に落ちないあすかの横で腕組みをしていた平は太郎と目を見合わせ、大きく頷いた。
「うむ……飲み方としては、まちがっちゃいません。これは、江戸時代の玉割りですよ」

 玉割りの意味が分からず首を捻る野口と五朗を、あすかの手を打つ音が驚かせた。
「あっ!そっか! 先に酒を入れて水を足したら、いかにも水割りだけど、水を先に入れて酒を足すって作法なら、蔵元がやってた玉割りと同じだわ。うちの実家もそうだったけど、大正時代まで、たいていの蔵元は原酒を量り売りしてたの。だから、主婦は食費が乏しくなると、酒屋の井戸水で原酒を薄めて買っていた。こんな感じで、先に水を計って徳利に入れて、後で酒を足していっぱいに満たすの。そうすれば、薄い酒でも量があるから旦那の機嫌はそこなわないでしょ」

 あすかの声を追うように、太郎の手からピッチャーに注がれる純米酒が音を立てた。すると、やにさがっていた銀平が両手をバタバタさせて、あすかの口を止めた。
「ととっ、あすか! オイシイとこ、持ってくんじゃねえよ! だからよう、野口さん。この玉割りのウンチクを部下に教えて、客の前でやって見せながら座興にしちまうんだよ。これなら、若ぇ奴らが薄い酒を飲んでも接待の場の雰囲気は悪くならねえ。地酒好きな相手なら、なおさらおもしれえって喜ぶってわけだ」

 しかし、肝心な野口と五朗の視線は銀平の背後へ注いでいた。気配を感じた銀平が振り返ると、テーブル席でノンアルコールビールを飲んでいた若い客たちが肩越しに玉割りを覗き込んでいた。
「あの……もう一度、僕らにも教えてもらえませんか、その玉割り」
「えっ! ああ、いいぜ。おう、野口さんの出番だ。さっそく玉割り指南、いってみよう!」
 銀平は若者たちを五朗の横へうながし、野口を囲ませた。
 一瞬たじろぎながらも身ぶり手ぶりに熱がこもっていく野口に、太郎と平からほっと笑みがこぼれた。
 それを目にするあすかが、胸の前で小さく手を合わせてつぶやいた。
「どうぞ来年も、日本酒がたくさん飲まれますように……」