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室町酒造株式会社 ~プロローグ

中国自動車道、山陽自動車道を西へひた走る取材班の車窓に、“播磨”や“備前”の地名が行き過ぎます。
いくつものトンネルを抜け、ますます緑を深めていた中国山地が一瞬途切れると、そこは山陽インターチェンジ。今回の訪問蔵元・室町酒造株式会社のある赤磐市(あかいわし)が、目前に開けました。


四方を山で囲まれた盆地は、豊かな水田と畑、そして名産の桃、ブドウを産する果樹園に恵まれています。町に到着した我々を真っ先に迎えてくれたのが、この町のランドマークとも言えるユニークな「桃のガスタンク」でした。

また赤磐市周辺は、酒造好適米として五指に数えられる「備前雄町米(びぜんおまちまい)」の里として、つとに知られています。夏の陽射しに映える雄町米の背丈は、通常の稲よりもぐんと高く、吹き下ろす山風が萌黄色の水田を大きく揺らせていました。
室町酒造はこの雄町米の酒造りに特化した「地産地消」をモットーとし、蔵元は備前の地で数百年の家系を継承していると知り、取材スタッフ一同に期待がふくらみます。

赤磐市周辺は、岡山県一帯が吉備国(きびこく)と呼ばれていた神話の時代より、政治・文化の要衝でした。今日、岡山県内では幾多の巨大古墳(王の陵墓)が発見され、ここ室町酒造周辺にも「両宮山(りょうぐうざん)古墳」が残っています。

両宮山古墳は備前地方最大の前方後円墳で、墳丘の長さ192m、幅120m、高さ20m。完成したのはA・D5世紀後半と推定され、周囲は往時のままに濠水を湛え、鬱蒼と茂る森が白鷺など野鳥の楽園となっています。

そのほとりに、天平13年(741)聖武天皇の詔勅によって建立された国分寺と国分尼寺の跡があります。

天平時代には、奈良の都と出雲国(今の島根県)、周防国(今の山口県)などを結ぶ西国道が整備されていました。街道には馬を使う通信使が往来し、点在する国分寺はその中継所としても使われました。つまり赤磐市周辺は、重要な西国の情報拠点だったわけです。
現在は、国分寺の基檀や礎石を見るのみで、鄙びた七重の塔の石積みだけが往時の佇まいを物語っています。

さて岡山県には、鎌倉時代頃より備前(びぜん)、備中(びっちゅう)、美作(みまさか)など地域別の国称があり、それぞれの地で有力な国人(土豪)同士が拮抗していました。
しかし、室町時代後半になると豊かな平野を持つ備前地方の武家が擡頭し、備州国の覇権を手中にしていきます。
中でも、備前国邑久郡(おくぐん)の一介の館主であった宇喜多(うきた)氏は、戦国末期には播磨国(今の兵庫県西部)から備前国を有するほどの戦国大名まで成長し、元亀・天正年間(1570~1592)に活躍した宇喜多 直家(うきたなおいえ)は“西国の織田 信長”と称賛されるほどの実力者でした。

直家は、天文12年(1543)備前の地頭・浦上 宗景(うらがみむねかげ)に14歳で出仕し、謀略・知略によって功を挙げ始めます。永禄9年(1566)頃には備中松山城主・三村氏を撃破し、乱世の梟雄に躍り出ました。さらに翌年には、備前国西部の領主・松田氏を滅ぼして主家の浦上氏を凌ぐ勢力となり、元亀元年(1570)岡山平野の制圧に向け、石山城主・金光 宗高(かねみつむねたか)を謀殺します。

この石山城を天正元年(1573)に大改修したのが、現在の岡山城の前身でした。
天正9年(1581)直家が病没すると、その子・秀家(ひでいえ)が家督を継ぎます。この秀家は豊臣 秀吉とその正室・ねねの養子でもありました。秀吉の下で数々の武功を挙げ、豊臣政権後は、備前国・美作国・播磨国西部など57万4千石を知行する大大名に躍進したのです。

それを機に、秀家は石山城に隣接する丘陵・岡山に巨大な本丸を普請します。時代を先取りした城郭と濠造りで守りを固め、広大な城下町を整備し、商人街と田園地帯を一望にする名城が出現しました。
黒光りした威風堂々たる姿は、後世まで「烏城(からすじょう)」と賛美されました。江戸開幕後の元禄13年(1700)には、池田家六代蔵主・綱政(つなまさ)がその城郭を雅やかに映す庭園・後楽園(こうらくえん)を隣地に造営しています。
この後楽園は水戸の偕楽園、金沢の兼六園と並ぶ日本三名園に数えられ、今も訪れる人々が池泉回遊式の名園にうっとりと見入っています。

この藩政時代から近代まで岡山の繁栄を支えてきた商都が、今や山陽路を代表する観光地・倉敷市です。
倉敷の町は太平洋戦争での空襲を免れたことで、数多くの歴史的な遺構や建造物を有しています。旅好きなら誰もが一度は訪れるメインストリートの「美観地区」では、澄んだ水路を錦鯉が泳ぎ、その水面はノスタルジックな佇まいの旧家、なまこ壁の蔵と柳並木に包まれています。

元々、倉敷周辺は、北は中国山地、南は児島湾と瀬戸内海の島々に面する内湾の地で、戦国末期までは人と物資を海上輸送する港湾の町として栄えていました。
しかし、江戸時代となって児島湾沿いの新田開発が活発化すると、寛永19年(1642)には倉敷から玉島周辺の島々は陸続きになり、漁村から農村へと変貌。年貢米の産出・積み出し量 も急激に増え、代官所が置かれる天領となったのです。

さらに新田は綿、菜種などの作物も生産し、文化10年(1813)地元の名士・野崎 武左衛門(のざきぶざえもん)が塩田を開発し、製塩業(塩田)を勃興させたため、これらの地場産品は倉敷の町に常時集約され、備蓄と物流の拠点になったわけです。
漆喰の白壁の屋敷には、かつての米倉、綿問屋、塩問屋の風情が漂っています。
また、当時流行した「真田紐(さなだひも)」作りを倉敷・児島の商人が内職にし、織物企業の先駆けとなりました。
真田紐は、戦国末期の甲州大名・真田家一党が刀の柄を巻くのに使用していた平組み紐で、その丈夫さから、後世まで伝えられる名品となっていました。

倉敷では、これが明治維新後の殖産興業政策によって一大産業へと発展し、明治14(1881)に玉島紡績所が誕生、そして明治22年(1889)大原 孝四郎(おおはらこうしろう)の手によって倉敷紡績所(クラボウ)が創業したのです。

時代をタイムスリップしたかのような美観地区の通りには、世界的な名画や彫刻を所蔵している「大原美術館」、レンガ造りの旧・倉敷紡績社屋を生かした「アイビースクエア」などが佇み、そこかしこに懐かしい日本文化と癒しの空気が満ちています。

ところで読者の皆さんは、日本酒と肩を並べるほど素晴らしい、岡山ならでは伝統文化をご存知でしょうか。
歴史好きな方なら、名刀「備前長船(びぜんおさふね)」の呼称を聞いたことがあるでしょう。実は、この長船(おさふね)とは地名であり、現在も“瀬戸内市長船町=刀鍛冶の町”として1200年以上の歴史と伝統を紡いでいます。
ちなみに、歴代の備前の領主たちには豊かな財源がありました。それが地場産業の「刀剣」だったのです。

古代より、中国山地では良質の砂鉄が採取されていました。備前では山間部の美作地方から流れ込む吉井川の水運が普及し、砂鉄が入手しやすいため、平安時代末期より「古備前(こびぜん)」と呼ばれる刀鍛冶集団が確立していました。彼らが鍛える刀剣は国内の武家のみならず、朝鮮王朝や宋(中国)への貿易品としても量産されたのです。

ききしにまさる備前の名刀・古刀の数々は、今も地元の「備前長船刀剣博物館」に所蔵されています。その展示室には、匠が鍛え、名将たちの腰を飾った太刀や脇差などが展示され、至宝の輝きを放っているのです。
また館内では実際に刀造りも行われ、火の粉舞うタタラ場や槌音響く鍛冶場へ観光客が食い入るように視線を注いでいます。
さて、長船町から取材班の車は一気に瀬戸内海まで南下し、近年人気のリゾート地「牛窓(うしまど)」を目指しました。
珍しい牛窓の地名の由来は、なんと神功皇后の神話の時代に遡りますが、非常にユニークです。

A・D663年、朝鮮半島の白村河(はくすきのえ)の戦いから帰還した神功皇后の船団が牛窓沖を通過する際、その威光におののいた牛鬼がスッテン転んだことから「牛転(うしまろび)」と呼ばれ、それが訛って「牛窓」になったと伝わっています。
町をそぞろ歩けば、万葉の和歌を刻んだ石碑が点在していて、牛窓を訪れた平安時代の歌人たちの、美しい瀬戸の光景にまどろむ姿が偲ばれます。また江戸時代、波静かな牛窓には、船で参勤交代する大名たちが風待ち、潮待ちをする入り江がありました。
そんな好条件の波止場の町は、今やクルーザーからカッタークラスまで揃う本格的なヨットハーバーも備えており、丘の上に立つホテルやペンションは「日本のエーゲ海」のキャッチフレーズを掲げ、新鮮な魚介類と青い海を魅力にしてゲストを招いています。

悠久の時代より、山里の歴史、町の文化、海の魅力を備えてきた備前国。その連綿たる歴史の中には、いつも備前の酒があったはずです。
室町酒造の取材に先立ち聞き及んだところでは、蔵元の花房家は累代にわたって備前に住まう名門で、その遠祖は戦国時代の宇喜多家、江戸幕府下の池田藩と深い関係にあったそうです。
戦乱ある時は国人筆頭として土地を守り、また太平の世には大庄屋として年貢安泰に勤めた花房家の血脈。その酒造りは、まさに“備前酒屋の真骨頂”と言っても、過言ではないでしょう。

銘酒「櫻室町」の一滴一滴には、土地の豪士であった蔵元の功績と伝統が息づいているのです。
備前国のロマンに想いをはせつつ、雄町の里の蔵元物語を紐解くこととしましょう。