歴史背景

六花酒造株式会社

津軽を代表する銘醸御三家の結晶

津軽を代表する銘醸御三家の結晶、みちのくの新進の辛口酒「じょっぱり」

六花酒造株式会社の正面玄関を入り、まず目の当たりにするのが、11,000坪を有する広大な敷地。そこには巨艦を思わせるような蔵棟が据わり、しばし圧倒されたまま立ち尽くします。
伝統的な酒蔵のイメージとはほど遠い大量消費時代の生産設備ですが、六花酒造株式会社のバックボーンには、津軽の酒蔵を代表するにふさわしい格式が貫かれています。
「六花酒造株式会社は、昭和47年(1972)に地元の名門3蔵が合併した企業なのです。

その3蔵とは、銘柄“白藤”(しらふじ)の高嶋屋酒造株式会社、“白梅”(しらうめ)の白梅酒造株式会社、そして“一洋”(いちよう)の株式会社川村酒造店でした。昭和38年(1963)国の近代化促進法が可決し、全国の多くの中小蔵元がそうしたように昭和44年(1969)施行の第二次近代化計画に同意したわけです。当時の弘前では大手酒造メーカーの進出が激しくなり、これに対抗すべく地元の有力3社が結束し50,000石規模の酒造会社を立ち上げ、東北に一大センセーションを起こそうとしたのです。つまり、過去の歴史・伝統はいったん白紙に戻していますので、今回の取材に足りる情報は潤沢ではないかもしれません」
そう前置きしつつインタビューに応じてくれたのが、六花酒造株式会社代表取締役社長の北村 裕志(きたむら ひろし)氏。昭和47年の創業時より営業職一筋に歩んできた“生え抜き社長”です。

広大な工場敷地
代表取締役 北村 裕志 社長
弘前の名門・御三家が合併

北村社長の解説によると、昭和30年代後半から40年代は首都圏への集団就職、大阪万博への出稼ぎが相次ぎ、そのため盆・正月に帰省した彼らが、都会で流行している大手メーカー酒をこぞって飲んだそうです。これに感化され、いつしか地元の消費者も同じ酒を口にするようになりました。
「当時、私は駆け出しの営業マンでしたが、いやはや、地元の方々にフラれるとは思ってませんでしたね。津軽の人間は“じょっぱり”(頑固者)と言われますが、反面、見栄っぱりなのですよ(笑)」
北村 社長の朗らかな笑顔と津軽弁に、インタビューの場が和みます。それでは、津軽の酒文化も織り交ぜながら、六花酒造の歴史を紐解いてみることにしましょう。

集団就職

国造りの時代から厳しい冬の原風景を生き抜いてきた、津軽地方の人々。当然、酒は生活必需品であり、唯一の楽しみでした。また、津軽平野は東北を代表するほどの米作地で、酒造りも盛んだったのです。同じ青森県内でも、岩手県寄りの南西部は冷たい山勢(やませ)が吹きすさび、稲作には適しませんでした。

藩政の安定した江戸時代・元禄15年(1702)頃には226軒の蔵元が操業していたと、当時の古文書に記されています。ちなみに、同時期の会津藩(現在の福島県会津若松市)は110軒程度と伝わっていますから、津軽藩は酒造業を相当に擁護していたようです。

さて、そんな時代に六花酒造の母体となっている蔵元の一つ「高嶋屋酒造」が呱々の声を上げています。享保4年(1719)、当主の藤田 久次郎(ふじた きゅうじろう)は、弘前城下に暖簾を掲げました。銘柄は“白藤”で、いわゆるドブロクのような濁り酒。当時の醸造規模としては400石から500石前後と推察されています。

津軽藩はこのような規模の蔵元にまんべんなく酒造株を与え、総計で約6,380石を生産していました。その半数が北海道の松前藩(現在の函館方面)や南部藩(現在の青森東部や岩手方面)にも売り出されたのです。
時代は移り、明治13年(1880)旧来の酒造株制が廃止となり、酒造免許制度が施工されます。この6年後に次なる母体である「白梅酒造」が誕生、当主は野村 音次郎(のむら おとじろう)でした。
当時の全国酒蔵数は約12,500軒となっており、弘前界隈では30軒まで減少しています。酒造免許制度による軒数整理と一軒当たりの製造量増加が、この理由のようです。
そして、明治42年(1909)には川村酒造店も創業し、津軽の地酒蔵元としての歴史を刻み始めました。

津軽の冬の原風景
古文書
明治期に白梅酒造、川村酒造店が誕生

さて、高嶋屋酒造、白梅酒造、川村酒造店は、大正時代から昭和初期、そして戦後の復興期まで、弘前を代表する蔵元御三家として繁盛しています。
それぞれ戦時下の企業統制整備を受けることもなく、昭和40年代の清酒ブームを迎えたわけですが、先述の北村社長の説どおりに、高度経済成長とともに進出してくる大手メーカー酒の攻勢になすすべなく甘んじていました。
じりじりと狭まる地元市場に危機感を抱いていた高嶋屋酒造社長・藤田 久次郎(世襲)は、白梅酒造社長・野村 音次郎(世襲)、川村酒造店社長・川村 東一郎(かわむら とういちろう)と協議し、「時は今!」と肩を組み、行政の第二次近代化計画に沿って合併に至ったのです。
「そうなるまでは、お互いの蔵元ともじょっぱり魂を見せていたようです。合併までの5年間は物議を醸したらしいですが、このままでは共倒れどころか津軽の酒が失われてしまうと、昭和47年(1972)一致団結して六花酒造株式会社を立ち上げました。酒造免許は、八代253年間の伝統を持つ“白藤”の高嶋屋酒造の資格を優先し、他の2社の免許は返還することになったわけです」
現在の社屋が完成する前、ここは広大な稲田と岩木山を望む農村だったと、北村社長は窓を指差します。その先には、うっすらと雪を被る津軽富士が雄々しく聳えていました。
ちなみに“六花”の社名は当時の藤森 弘前市長が命名し、“雪の結晶”を意味しています。津軽の風土と雪国の酒造りを象徴する言葉です。

甘口 中口 辛口
酒桶
酒蔵入り口
かつては岩木山を望む農地だった

50,000石が生産可能な新メーカーとして再生された六花酒造は、その後の26年間、母体である3社のトップが交代で経営者を務めました。このため、銘柄も“白梅”“一洋”“白藤”をそのまま踏襲しました。
初代社長は元・川村酒造の川村 東一郎、二代目社長が元・白梅酒造の野村 音次郎、三代目社長も元・白梅酒造専務の佐藤 晃司(さとう こうじ/現会長)、そして四代目は、元・高嶋屋酒造の藤田 宣伸(ふじた たかのぶ)と続きましたが、平成10年(1998)現社長の北村 裕志 氏が社員から代表者に就任しています。

しかし、開業後の地元市場では、ますます大手酒ニーズに拍車がかかっていました。製造石高も22,000石を頂点にして、下降線を辿り始めます。
当時の東北の地酒はどちらかと言えば甘い酒が多く、濃醇な味わいが特徴でした。そのため、都会でブームとなっている辛口酒の必要性が問われていたのです。

そこで、六花酒造の竹沢 熊七(たけざわ くまひち)杜氏は、どこの酒にも似ていない津軽の辛口酒を造り、差別化を図ろうと蔵元に提案しました。こうして醸し出されたのが、“じょっぱり”なのです。
頑固一徹なオヤジのように辛い酒。そんな津軽のイメージも醸した酒でした。
今までの地元酒と一線を隔する“じょっぱり”のキレの良さ、力強い味わいが新たなファンを掴み始めます。弘前出身の名士やVIPの面々にも気に入られ、彼らの口コミ宣伝効果も合って、その知名度は少しずつ上っていきました。
そして、地酒ブームへと移りゆく中で、六花酒造は“じょっぱり”を引っ提げて全国ブランドを目指すのです。

酒蔵内
津軽の辛口酒

昭和52年(1977)三代目・佐藤 晃司 社長が、大車輪の活躍を見せます。
彼は横浜の卸問屋に“じょっぱり”を売り込みますが、「酒質、価格とも検討し直してくれ。それに、こんなラベルじゃダメだ。こちらが欲しいのは、消費者をあっと言わせるようなインパクトのある商品なんだよ」と、けんもほろろに門前払いを喰わされます。
しかし、ここからが佐藤社長のじょっぱり魂の正念場。弘前に取って返すや社員幹部と昼夜をかけて協議し、1週間で商品改良をやってのけます。
その頃の“じょっぱり”の味は佳撰酒レベルでしたが、これを本醸造に。価格は旧・二級酒レベルのままで。そしてラベルは、おとなしい雪模様を一新し、現在のような強烈な印象のキャラクターを考えたのです。

このキャラクターは、お隣の黒石市名物の“温湯(ぬるゆ)コケシ”の腹に描かれているダルマをモチーフにしています。発案したのは黒石市出身の佐藤 晃司 社長で、卓抜した才能は金沢工業大学デザイン学科の卒業にあるようです。
予期せぬほどの素早いレスポンスに横浜の卸問屋は驚き、目にした商品、口にした品質に「一発OK!」の太鼓判を押しました。この成功をきっかけにして、“じょっぱり”はさらに全国流通ルートへと広がり、東海から関西、さらには中国・九州方面まで販路を拡大したのです。

じょっぱりラベル
製造ライン
様々なじょっぱり

平成元年頃の“じょっぱり”の好評を思い出しつつ、北村社長は語ります。
「当時、私は営業部門の統括を任されておりまして、それを契機に全国行脚もしました。営業車で弘前から東京、名古屋、大阪へ、そして広島、福岡へと、まさに一人ぼっちの全国ツアー巡業でしたよ(笑)」
おっと!北村社長の武勇伝は、蔵主紹介ページでじっくりと拝聴することにしましょう。

かつては幾多の蔵元が軒を連ねた津軽地方。しかし、今や十数軒となり、往時の繁栄は夢まぼろしのようですが、その蔵元たちが酒造りへ賭けた情熱は、じょっぱり魂となって六花酒造株式会社の中に息づいているのでしょう。

神棚
じょっぱり魂を受け継ぐ