歴史背景

名倉山酒造株式会社

挑戦し続ける名門・松本家に受け継がれた、葦名家重臣の血脈

挑戦し続ける名門・松本家に受け継がれた、葦名家重臣の血脈

澄み切った秋の青空に、翼を広げたかのように映える「鶴が城」。広大な掘割と敷地、堅固な城郭を目の当たりにしながらも、漂う空気には、物静かな風情と、そこはかとない哀愁を感じます。
いわゆる、「気高さ」という言葉が、鶴が城にはふさわしく思えるのです。
会津の蔵元の歴史を知るには、まずは会津の象徴を知るべし。そんな日本情緒たっぷりの景観を、名倉山酒造株式会社の代表取締役である松本 健男 社長 自らが案内してくれました。

「今も会津若松市内には、鶴が城を中心とした当時の区画が残されています。このお城は再建されたものですが、細い路地や入り組んだ辻角には、かつての趣を感じてもらえるでしょう」
毎年9月には、鶴が城をメインに「会津秋祭り」が催され、恒例の「藩公行列」では、松本社長も鎧兜に身を包み、馬上の人となるそうです。

そんなこぼれ話に談笑しながら、松本 社長は、取材スタッフを城近くのとある場所へ導きます。たどり着いたのは、古めかしい天満宮。その社の傍らに、松本稲荷神社と書かれた祠が合祷されていたのです。言わずもがな、松本家ゆかりの神聖な佇まいに、筆者の耳と好奇心が昂ぶり始めました。

松本家に残る家系図は、松本 造酒介(みきのすけ)のという名を始祖としています。れっきとした武士ですが、今にして酒蔵を営んでいることに不思議なえにしを感じざるを得ません。そもそも松本家は、鎌倉時代から戦国時代にかけて、奥州の守護大名であった葦名氏に仕えた家老でした。しかしながら、天正17年(1589)に葦名 義広の4宿老であった松本 弾正(だんじょう)が磐梯山麓の摺上原(すりあげはら)の戦いで伊達 政宗に破れてからは、山間の檜原村へ隠棲し、木地師として暮らし始めます。

「裏話し的な史実ですが、会津の酒蔵の歴史には伊達 政宗がかなり影響を及ぼしているのです。南奥州に攻め入った伊達 政宗は、摺上原(すりあげはら)の戦いの前に、まずは会津の隣の二本松に攻め入って畠山氏を滅ぼします。その時、畠山氏側の新しい城の城主は、伊達政宗の父・輝宗を拉致したのですが、輝宗も犠牲にした戦いに政宗が勝ち、会津へ敗走して来ました。
また、もう一つの防城・「宮の森」城主も伊達に敗れて会津に逃れたのですが、この両家とも、今は会津の蔵元なのですよ。

鶴が城を散策
松本 健男 社長が案内
松本稲荷神社
摺上原古戦場
檜原村へ隠棲

さて、侍の身分を捨て、一族郎党とともに木地師となった松本家は、天下泰平の江戸時代にようやく先祖代々の地・会津若松へ帰巣します。
天正18年(1590)蒲生 氏郷が会津若松の領主になって以来、工芸品の「会津塗」が広まり、徳川体制下には藩の一大産業へと発展しました。この会津塗の漆器屋として松本家は返り咲き、さらに主要産業となりつつあった酒造業を分家が手がけたのです。
ちなみに、会津若松市の有名な漆器メーカー「松本産業」は往時からの総本家。寛文2年(1662)の創業が、松本社長の解説にピタリと符合します。

江戸時代、松本家の分家筋には4軒の蔵元が存在し、それぞれが会津藩御用達の酒として、藩公の思し召しを賜ったようです。戊辰戦争で城下は灰燼に帰しますが、明治時代の復興とともに酒造りが隆盛。そして、会津を代表する蔵元となった「美家光(みやこう)酒造」が名倉山酒造の本家に当たります。
大正7年(1918)美家光酒造の蔵元・松本忠四郎の六男であった松本善六は、40歳半ばで「竹正宗酒造」として独立。この人物が、名倉山酒造の創業者です。

まだまだ腐造や劣化が頻発した時代に、善六が一念発起した理由は、彼が天稟の才として授かっていた“きき酒能力”にありました。善六は民間の鑑定士として、他の蔵元から醸造指導の依頼を受けるほどでした。
「当時、善六の甥(長兄・忠四郎の息子)は大阪大学醸造学部に学ぶエリートで、国税局入りを目指し灘や伏見の蔵元と交流していたのですが、そんな所まで“会津の善六”の名前は轟いていたそうです」
そう語る松本 健男 社長の曽祖父こそが、善六なのです。

竹正宗酒造は、創業に当たり、本家の美家光酒造から幾つかの得意先を譲り受けました。その大半は、猪苗代湖の南岸にある湖南村一帯でした。湖北の舟津の湊に着いた善六は磐梯おろしの寒風吹きすさぶ湖を舟で渡り、戸の口地区の村里を売り歩き、夜は「秋山」という旅籠を宿にしたのです。
翌朝、宿の玄関を発つ善六。その目前には、朝焼けに映える名倉山が静かに座っていました。名倉山は“神の住む山”“吉相の山”として今日も地元の人々から崇められており、善六の胸に生き続けてきたこの山への想いが、昭和12年(1937)に社名となったのです。

余談ながら、毎月足繁く湖南村へ通ううち、善六は秋山の娘を見初めました。つまり、この娘・ツネが、松本 健男 社長の曽祖母です。
善六の酒「竹正宗」の醸造は、新潟県の寺泊からやって来る越後杜氏の造りで始まります。当時の規模は定かではありませんが、蔵元本人が行商して歩くほどですから推して知るべし、家内工業的な100石~300石程度のものでしょう。わずかずつながら、「竹正宗」は愛飲家を作っていったわけです。
当時の蔵跡は現在も市内行仁町にその面影を残し、蔵のある飲食店「蔵の店」として生かされています。

会津塗
蔵元
舟で猪苗代湖を渡る
名倉山

昭和に入って長男の善一が経営参画すると、竹正宗はいよいよ頭角を現し、昭和8年(1933)東北鑑評会において優等賞を受賞します。しかし昭和12年(1937)に、善六は突然と南部杜氏を招き、名倉山酒造へ社名変更し、それまでの造りから大きく方向転換するのです。
「何故、善六が南部流を使ったのか、今となっては知る由もありませんが、当時としては、大きな賭けだったと思います。岩手県から呼び寄せたのは、鎌田 元八という名杜氏でした。この杜氏の弟子たちが、後々に会津の蔵元数社の酒造りを担っています。昭和初期には、速醸技術が劇的に進化しました。本来の摺りや自然の乳酸発酵を省くような酒造りが会津でも主流になる中、善六と善一は、あくまで山廃や生もと造りにこだわったのでしょう」
それは、名倉山酒造87年の歴史における大きな岐路でしたが、善六たちの試練は生半可なものではなかったと、松本社長は幼い頃に聴かされた口伝を語ります。

時流に逆らうような竹正宗酒造へ周囲からは冷たい視線と中傷が投げられますが、なおも失敗を繰り返しつつ、果敢に酒質の向上・改良へ取り組んだのです。
しかし、志半ばにして善六は昭和17年(1942)に68歳の生涯を閉じます。
太平洋戦後に二代目として父の遺志を受け継いだ善一は、アル添酒市場を掴みながらも、一方では、山廃仕込みを頑なに追求し続けたのです。

昭和31年(1956)戦後の経済復興が上り坂となり、清酒需要も急成長。名倉山酒造は、千石町に第二工場を建設し、これが現在の本社の母体となっています。しかしながら、その土地の地下水は、善一が望む仕込み水とはかけ離れていたのです。
昔から会津若松市内には二つの良質の水脈が流れ、それに沿って酒蔵や味噌蔵、醤油蔵などが建てられました。第二工場は、そこを外れていました。
あくまで水にこだわる善一は、水脈の「近くで操業する縁戚関係の翁島酒造を頼り、仕込み水を汲み出しました。この水によって、みごとな山廃仕込みの酒が誕生し、亡き善六の夢は花開いたのです。

昭和50年代からは、松本 社長の父である三代目・英治が蔵元として登壇。世の中は、灘・伏見の大手メーカーを筆頭に、アル添酒一色の市場でした。そんな中、祖父や父譲りの熱い血潮が英治の胸にたぎります。
英治は、手造りの吟醸酒造り・100%米だけで仕込む純米酒に着手しました。ところが、ここでも新たな難問が立ちはだかります。名倉山酒造の酒造りはすでに大半がアル添酒であり、老練な鎌田 元八 杜氏にとって本来の吟醸造りは、おぼろげな形になっていたのです。ましてや、その弟子の鎌田 敬次にしてみれば、まったく未経験の世界でした。
その頃、会津では吟醸酒造りに取り組む蔵元が数社あり、英治は相互の情報交換によって成功の糸口を探ろうとしたのです。

水質だ、いや蒸し方だ、麹の温度だと、切れ切れの憶測と風評が飛び交う中、造りは遅々として進まず、失敗が度重なりました。ようやくにして英治たちが正鵠を射たのは、昭和48年(1973)。タンクにしてわずか2本分が完成しましたが、あまりにも辛口に仕上がりそうだったので、1本は四段仕込みで甘口にし、最終的に2種をブレンドしたのです。

「今にしてみれば、信じがたい造り方ですね」と松本 社長は苦笑いしますが、何はともあれ、芳香と米の旨味に満ちたしずくが、ついに搾られたのです。
この純米酒は取引先や関係者をあっと驚かせましたが、時代は吟醸酒の夜明け前。価格的にも高価なため、ヒットには到りませんでした。

しかしながらこれが転機となって、名倉山酒造は10年後に訪れる地酒ブームを予期したかのように、吟醸酒に磨きをかけていきます。英治の理念・哲学は、四代目・松本 健男 社長へと引き継がれ、今日、純米一筋の名倉山として会津酒の人気を牽引しているのです。
その松本 健男 社長の新たなチャレンジは、蔵元紹介コーナーでじっくりと伺いましょう。

歴代の松本家当主が果敢に挑んだ、信念の酒造り。各々が身につけた先見の明……そこには、初代・善六から受け継いだ素地・素養のみならず、ひとかどの武家として戦国を生き抜いた、松本弾正の血脈をも感じるのです。

昭和12年 名倉山酒蔵へ
当時の酒ふね(市へ寄贈)
鎌田 敬次 杜氏
挑戦する血脈は、松本 社長へ