プロローグ

田村酒造場

江戸酒のルーツをたどる、福生と多摩川の魅力

江戸酒のルーツをたどる、福生と多摩川の魅力

コンクリートジャングルと夥しい雑踏を忘れさせるかのような、のどかな多摩川の風景。
その水辺には白鷺やカルガモの親子が戯れ、昼下がりの土手を行き交う人の表情をほころばせます。
ここは、東京都福生市。都心から西へ約40km離れた、武蔵野台地の西端に位置しています。人口は、約62,000人。市の東側から多摩川に向かって河岸段丘が緩やかに続き、その斜面には地下水が流出していて、そこかしこに湧水を見ることもできます。

また、町中には多摩川から引き出した分水が入り組んでいて、かつて江戸八百八町を潤した「玉川上水」の名残を偲ばせています。
こう言えば、福生市が酒造りに適した土地柄であることを、賢明な読者はもう察したことでしょう。
今回訪問する田村酒造場の銘酒「嘉泉」は、福生市に生まれた“まぼろしの酒”と称えられる美酒です。
その銘に滾々と湧き出す泉を想い浮かべるのは、筆者だけではないでしょう。

多摩川
達村酒造場の銘酒「喜泉」

東京都の酒造組合には、現在12社の蔵元が加盟しています。都内から西へひた走った福生市や八王子市、青梅市などにほとんどが点在していますが、それは多摩地域が江戸時代の天領で、各村々の庄屋たちによって酒造りが行われたことを意味します。
ちなみに歴史編で後述しますが、田村酒造場の蔵元・田村家もその一つであり、江戸幕府から領内の監視役を下知されるほどの名門でした。
お江戸八百八町と呼ばれた時代、庶民はこぞって灘の酒をもてはやし、求めていました。江戸の人口が120万人を超えた文化文政の頃には、樽廻船によって4斗入り樽が200万本も運ばれて来たと言われています。
ところが、実は灘酒が普及したのは、元禄時代以後の1700年代に入ってからでした。この時を契機に、江戸ではさまざまな「くだり物」文化が広まっていくわけですが、それまでは、むろん地場産物で賄うことに頼っていました。
当初の江戸は、徳川 家康が関東八州の領主として三河岡崎より入府したばかりの荒涼たる土地。殺風景な平野を前にして、家康は早速、城作り・町作りに取りかかりました。

江戸城は「三代普請」と言われ、城郭の総構え(総縄張り)が完成したのは、徳川 家光が将軍となっていた寛永13年(1636)。この頃、ようやく大名屋敷も城を囲むように整えられたのです。さらに町人の住む街区も形成され、全国各地から一攫千金を狙う商人や新天地を目指す職人が陸続と集まり、人口が急増し始めます。
この時代、灘の酒はまだ江戸に届いておらず、つまりは、江戸近辺で造られる酒がもっぱら消費されていたわけです。

それらは、後になって灘の「くだり酒」に比して「地廻り」と呼ばれるようになりますが、素朴な旨味とコクのある辛さが、スッキリとした口当たりの灘酒とは対照的だったと伝わっています。福生や多摩で造られていた酒も、そんな味わいだったのかも知れません。

田村家
江戸期の多摩川風景

ところで、福生市を散策すれば、誰しも多摩川との密接な関係を知ることになるでしょう。
多摩川水系は、現在、東京の水源の1/3ほどを占めていますが、それを江戸時代の上水道に活かした一大灌漑事業が「玉川上水」でした。この上水請申に名乗りを上げたのが、福生に暮らしていた玉川兄弟(兄・庄右衛門、弟・清右衛門)です。
承応2年(1653)、幕府からの上水普請の打診に請負を申し出た兄弟へ五千両の大金が渡され、工事が開始されます。二人は、多摩川の羽村取水堰から四谷大木戸までの43kmを掘り抜く未曾有の突貫工事を、溢れんばかりの人足を使って、たった7ヶ月でやり遂げました。

工事の途中、幕府からの支度金は底を突き、自分たちの家屋と田畑を売りはたいてまで完成させるというあっぱれな使命感に、兄弟は200石の禄高と名字帯刀を与えられ、士分として扱われるようになります。そして永年の間、玉川上水役を任ぜられたのです。
この時から、兄弟は玉川姓を名乗ることになりました。
しかし、ただ一度だけ、彼らが失敗を犯した跡を、今も目にすることができます。
それが、福生市にある「水喰土(みずくらいど)」の地。実は、現在より西側にルートを取っていた上水を兄弟がここを通した際、地中に水が吸い込まれ、流れなくなってしまったのです。

この付近の土地は、古くから水喰土と呼ばれていたそうで、兄弟たちはその真実に呆然とし、掘削のやり直しを余儀なくされたのです。
しかし、彼らの功績によって多くの分水(用水路)が武蔵野に張りめぐらされ、農業生産を大変革させ、江戸庶民の生活に安定をもたらしたわけです。
また、玉川上水は舟の通行が許可されていたので、福生の農産物や地廻りの酒、名産品の生糸などが江戸市中に届けられたことでしょう。

玉川上水
玉川兄弟の像

玉川上水からは、飲料および灌漑目的で33本もの分水が造られました。幾筋もの流れは多摩地方の町並みにとけこみ、四季折々の風景を美しく演出しています。
田村酒造場の蔵元である田村家にも、そんなたおやかな分水が引き込まれています。
1867年(慶応3年)より玉川上水の取水権を許されて以後、「田村分水」と命名された清らかな水面は、田村家の繁栄をずっと映し続けているのです。

かつて精米用に使われた小さな流れですが、水車の奏でる心地良い調べは、福生の里の人々にこよなく愛されたことでしょう。
そんなノスタルジックな福生の原風景に想いを馳せつつ、まぼろしの酒「嘉泉」と田村酒造場の物語を紐解いてみることにしましょう。

田村分水
田村酒造場