Vol.118 毛鉤

マチコの赤ちょうちん 第一一八話

午後5時に区役所から流れる「赤とんぼ」の音色が、ようやく夕焼けを背にする頃になった。
マチコのカウンタ-には彼岸桜が活けられて、ほのかな匂いが新酒の瑞々しい香りに似合っていた。
「この調子じゃ、東京は4月を待たずに満開ですかねぇ。その前に、マチコで花見して、骨酒まで飲めるなんて、もう最高~!」
唾を飲み込む澤井の視線の先で、真知子が尺イワナを焼いている。
それを持って来た津田はテーブル席にふんぞり返って、松村に肩を揉ませている。
「おいおいっ、澤井ちゃんには食わせへんでぇ。まっ、和也君はなかなか分かっとるみたいやからな。むっふふふ。どんなもんじゃい~。もう、年寄りの冷や水とは言わさんでぇ」
1週間前に、岐阜山中の雪解けの渓流でイワナを狙うと豪語した津田に、マチコの常連たちは「ダメだってば、風邪引くよ~?転んでケガするのがオチです」「そうそう!だからイワナいこっちゃない!てな目に遭いますよぅ」と冷やかしたのだった。
「そ、そんなぁ・・・ひと口だけでも、頼みますよぅ」
澤井や宮部が手を合わせて媚びる中、奥に座る壮年の男だけは憮然とした表情でビールを飲んでいた。早い時間にフラリと入って来た男の言葉に、真知子は北陸っぽい訛りを感じていた。
「でも、本音のところ、こんな季節にキツかったんじゃないのぉ?よっぽどの理由がありそうね?」
「ふ~む、そう来るか。やっぱり、女の勘っちゅうのは怖いもんや」
津田がタバコを咥えながら、真知子に感心した。
「わしの親友で、イワナに取り憑かれた男がおったんや・・・そいつの遺言でな。まっ、ボウズやなかったさかい、これで安心して冥土へ行ってくれたやろ」
いよいよ焼き上がったイワナの鉢に熱く燗した酒が注がれて、カウンターは芳醇な匂いでいっぱいになった。
ノドを鳴らして鉢を抱える松村を、男たちが恨めしげに見つめた。津田はタバコを一服して「まっ、ええやろ・・・みんなで回し飲みしいな」と笑った。
「うほう~、ごっちゃんです!!」
小躍りする男たちの端っこで、壮年の男が迷惑そうに顔をしかめた。それに気づいた真知子が、串で焼いたイワナを差し出した。
「お嫌いかしら?」
「いや・・・嫌いじゃないがや。けど、骨酒はちょこっと苦手で・・・」
うつむきかげんの男が、鼻先を左手でさすった。しかし、震える手は酒を欲しがっているように見えた。
いびつな瘤のある男の指先に、津田の視線が止まっていた。
「・・・ええ仕事してはる手や。不思議なことに、さっき言うてた、わしの友だちにそっくりやわ」
「えっ!?」
男が慌ててポケットに手を突っ込んだ時、勢いあまって、中から何かがこぼれ落ちた。
津田は無言で鮮やかな色彩の塊を拾うと、自分の胸ポケットから、それとそっくりの物が入ったケースを取り出した。
「そっ、それ、加賀毛鉤。しかも、本多流の仕立て・・・」
玉虫色のきらびやかな糸で編まれた塊は、カゲロウの形をしていた。
「十二代目の本多善兵衛は、わしの親友でな。加賀毛鉤を作る名人やったが、この1月末に亡くなった。あんさん、知ってんのか?」
津田が毛鉤のケースをカウンター置くと、男はしばし凝視していたが、いきなり愛しむように両手で包み込んだ。
「俺の師匠でしたが。・・・俺、酒が過ぎて、3年前に破門されてしまいました。 けど、毛鉤師をあきらめきれんで、今は東京でフライとかの創作をやっとるんです。それでも、こいつを忘れることができんで・・・」
2匹のカゲロウは、じっくり比べると、色と形が微妙に異なっていた。
「あんたのも、ええ作品やないか。“赤秀”・・・これが、あんたの銘か?」
「赤坂秀次、言います。本多のおやっさんには、20年仕えとったさけえ。けど・・・結局、酒に酔うて、仕上げた毛鉤を落としてしまったがや」
どこから見ても値の張りそうな芸術作品だけに、カウンターの男たちは黙り込んでしまった。
「ふふっ!うっふふう!ぐわっははは!」
その沈黙を裂いて、津田の笑い声が響いた。
「な、な、ななな、何だよ~、津田さん?」
「いくら何でも、失礼じゃないの」
松村と澤井の言葉に、赤坂も思わず唇を噛みしめた。
「す、す、すまんな。ちゃうねん、ちゃうねん。あんまりにも似すぎてて、おっかしゅうてなあ。ぐっふふふ!」
津田は笑いをこらえながら、言葉を続けた。
「善兵衛も、若い頃に、酒でどえらい失敗をしよってん。あいつは、あんさんよりアカンたれやで。師匠に内緒で極上の毛鉤でイワナをぎょうさん釣って、近江町の市場に売りさばいとった。その金で、毎週、西の遊郭通いや。それが師匠にバレて、5年も謹慎しとったわい」
「えっ!ほっ、本当なんけぇ~?なっ、何て、こっちゃ・・・」
赤坂は目を丸くしたまま、善兵衛の毛鉤を見つめていた。
「このイワナなぁ、去年、病床のあいつに頼まれてん。この2年で、善兵衛の弟子は、もう誰もおらんようになってた。伝統工芸ちゅうても、食うていくのは難しいからな。悔しがってたけど、その毛鉤が、あいつの最期の作品や。もう自分は釣りに行かれへんから、後生や、試してみてくれと頼まれてなぁ」

津田は、泣き出しそうな赤坂の顔を隠すかのように、白い煙を吐き出した。
「二兎を追うものは、一兎も得ず。本当に好きなのは、加賀毛鉤なんでしょ?それに、金沢の地酒も本当は好きでしょう」
真知子が加賀の酒のボトルを手にして、笑っていた。
「・・・日本酒は、やめたさけぇ」
「わしが許す。ちょっとぐらい、飲んだ方がええ。なあ、善兵衛・・・もう、勘弁したれや」
津田が善兵衛の毛鉤を取って、赤坂の毛鉤の横にそっと並べた。そして、酒を注いだ2つの盃を、両方の毛鉤の前に置いた。
「盃、もういっぺん、交わしてみぃ。善兵衛も、きっと喜ぶで」
肩を震わせる赤坂に、男たちがそれぞれの盃を手にして、小さく乾杯した。