Vol.119 さわら

マチコの赤ちょうちん 第一一九話

コート姿の客をめっきり見なくなって、窓越しには、淡い色合いのスーツの女性たちが見えるようになった。
真知子は醤油やダシをこぼした前掛けに目をやると、最近、オシャレに無頓着になってるなと、ため息をついた。
「春なのに……このままオバサン人生なんて、まっぴらよ~」
無意識につぶやいた真知子は、ふと、カウンターの隅に客が座っていたことを思い出した。開店直後にやって来た四十がらみの男だったが、あまりに静かで、気配すら消えかけていた。
「あっ、やだ!私ったら、恥ずかしいわ」
切り身の焼き魚を皿に盛りつつ、真知子は赤面して、男に愛想笑いした。
「ふっ……春か。こっちも独身オヤジだし、ご同輩ですよ。……それ、ひょっとして、さわらですか?」
男は、春めいているテーブル客たちと対照的に、くたびれたスーツ姿だった。肩には白いフケもちらほら見え、なるほど、これじゃ独り者でも仕方ないかと、誰もが納得する風体だった。
「ええ、今日は上物が手に入ったんですよ。旬でしょ、お好きかしら?」
「いや……遠慮しときます」
うつむいた男は、ぬる燗の盃をズズッと鳴らした。灘の辛口の酒だった。
天然パーマの薄い頭が、よけいに野暮ったく見えた。
「そりゃ、もったいないっすねぇ。こんなにうまい魚、食えないなんて」
真知子が手にしていた皿を、横から伸びてきた手が取った。
いつの間に入って来たのか、松村が「これ、頂きます!ついでに、岡山の冷酒、頼みま~す!」と真知子に手を上げて、カウンター席に腰を下ろした。
「岡山か……そいつも、嬉しくない名だな」
男は火照った鼻先にしわを寄せて、盃をグッとあおった。
「あの、さわらを食ったことない?じゃあ、この美味しさが分かるわけないよ。瀬戸内ならではの春の旬で、こんなにイイのは、なかなか築地でも手に入らないの!白身で淡白なサワラは、瀬戸内の岡山の酒にピッタリなの!」
松村は男をたしなめるように、ウンチクを投げた。
「……正確には、岡山じゃないよ。香川の魚だ。昔は“狭腹”って書いて“さはら”って言ったんだよ。嫁に来た娘が春になって里帰りする時に、必ずさわらを土産に持たせた。痛むのが早いから、嫁はさっさと実家へ帰れて、とっても喜んだ。うちの祖母ちゃん頃までの、習慣だけどね」
男がとつとつと語る言葉に、松村はポカンと口を開けたままだった。
「やっぱり……和也君、こういう局面に弱いわねぇ」
真知子が失笑すると、男は空っぽになったお銚子にふうっとため息を吐いて、言葉を続けた。
「食べれないわけじゃない。香川で暮らしてる頃は、カミさんのお気に入りでね。けっこう好きだった。……ふっ、土産に持たせちゃいないのに、 岡山の実家へ帰っちまって。それっきりさ。ははっ……シャレにもなんない」
酔ってきたのか、男の頬は赤らんでいた。
「あっ……そういうことか」
松村は気まずそうに真知子へ目を向けたが、男はそれに気づかず、たがを外したように素性を語った。
島田というその男は、3年前に妻と別れ、その後、上京していた。
香川の田舎町で、「嫁に逃げられた」と囁かれるのがいたたまれなかった。妻への怒りと憎しみに、彼女の好きだった物を嫌うようになった。
岡山の酒とさわらも、そうだった。
それでも島田は、思い出話の中に、ふっと一瞬の笑顔をこぼすのだった。
「つまらんことを、言ってしまった……」と、島田はひとりごちた。
黙って聞いていた真知子は、新しいお銚子を島田に傾けた。
「うっ……こ、この酒」

島田の盃が、口元で止まった。
「愛媛のお酒。岡山のお酒は嫌で、香川のお酒も飲みたくないでしょう。けど、愛媛のお酒なら、どうかしら。これも、瀬戸内のさわらにはピッタリの旨口の酒。島田さん……嫌なことも、良かったことも、故郷の思い出は大切にしなきゃね」
真知子がほほ笑むと、松村が島田の前にさわらを置いた。
「さわらって、瀬戸内海を回遊するんですよ。島田さんも、まず愛媛の酒を飲んで、岡山から香川の酒へ戻ってみるのって、どうすか」
「……ゆっくり、やってみるかな」
島田の箸が、さわらの端っこを少しだけつまんだ。
少しずつ、軽やかに動いていく指先に、真知子と松村は笑顔を見合わせていた。