Vol.87 紙ひこうき

マチコの赤ちょうちん 第八七話

師走に入って、お歳暮を届ける宅配便を町内のあちらこちらで見かけるようになった。土曜の夕暮れの中、マチコの店先にも一台の軽トラックが止まっている。
「どうも、ごくろうさま」
割烹着姿の真知子の声に、お歳暮を配達した青年が、ちょこりと頭を下げて暖簾から出てきた。
早い時間からカウンター席でほろ酔いの松村が、その小さな包みを物欲しげな顔で覗きこんだ。
「あっ、その包装紙。日本橋の“清太楼”じゃん!」
「おっ、うまいんだよな、あそこの羊羹」と、澤井も目を丸めて相槌を打った。
清太楼は江戸時代末期から150年も続く老舗の菓子舗で、羊羹や飴は、東京人にとっては昔懐かしい味でもある。
「あんたたち。酒飲みのクセに、甘いのもイケル口だったの?」
真知子があきれ顔で、お歳暮の包みを開けながら訊いた。
「大丈夫、大丈夫! 俺、饅頭食いながら、酒飲めるもんね!」と、松村は真知子をせかすように答えた。
「いくらなんでも、そりゃあ気持ち悪いよ」
澤井と宮部が顔をしかめてそう言った時、カウンターの奥から声がした。
「酒に羊羹ってのは、なかなかイケるものらしいですよ。……私の父が若い頃、今みたいな美味しい肴はたまにしか手に入らなくて。時々、羊羹の一切れを、酒の肴にしてました」
そのしゃがれた声に、松村たち三人が振り向くと、50代半ばぐらいの白髪まじりの男性が、目じりに皺を寄せてニコニコと笑っていた。
カウンターの隅に座る細身のその男は、燗酒を静かに手酌していた。
「あの……それ、いつ頃のお話ですか?」
真知子が、ゆっくりと一人酒を嗜んでいた男に2、3歩近づいて、そう訊いた。
「そうですなあ、東京タワーが建った頃でしたなあ。私は、8歳ぐらいでした。ようやく東京が元気になり始めた頃で、長屋造りのあばら家で、父が夕陽を見ながら、たまにドブロクと羊羹を楽しんでいましたよ」
どことなく遠い目をして語る男に、真知子はそっと酌をした。
男のまなじりが、ごく自然に、やわらかくほころんだ。
「私の親父も、そんなことを言ってましたよ。闇市はなくなってたけど、まだまだ“贅沢は敵だ”って言葉が残っている時代だった。居酒屋に行ける金もなし、冷蔵庫もスーパーマーケットもない。だから、メザシに一杯のカストリ酒が、毎日の楽しみだったって」
宮部の思い出話しが途切れると、澤井が冷酒グラスを持つ手を止めて、ポツリとつぶやいた。
「豊かに……なりすぎかもな」
つかの間の沈黙に、「これは、失礼しましたな……古臭いオヤジの独り言です。お許しくださいよ」と、男はみんなに白髪の頭を下げた。
男は遠藤と名乗り、戦後の神田界隈に生まれ育った人物だった。遠藤の父は戦地から復員すると大工になり、下町で妻子四人と慎ましい暮らしを送った。父や母にとっては清太楼の羊羹、自分には缶入りの飴玉が、何よりの楽しみだったと言った。
すると、真知子が口を開いた。
「ねえ……味わってみようよ。その頃の味を」
松村も澤井も、宮部も、ただ「うん」と答え、羊羹を切る真知子を見つめていた。羊羹は、冷蔵庫にあったにごり酒とともに、遠藤も含めた全員のテーブルに置かれた。
みんなの視線が、遠藤の顔に注がれていた。
「……いやいや、これは……本当に懐かしい。思えば、あの頃の父の歳を、とっくに越えてしまったんですなあ」
遠藤の顔が上気したように赤くほてり、手にした箸は小刻みにふるえたままだった。
そのようすに、澤井が「じゃあ、いただきますね」と誘うように声をかけた。
「美味しいねえ~」
「こりゃ、酒に合うよ!」
「そうか、私たちのお祖父ちゃんって、こんなに美味しい味を楽しんでたんだ」
宮部や松村、真知子の声に、遠藤の箸はようやく動き、羊羹を口へ運んだ。そして、盃のにごり酒を飲み干すとしばらく黙りこみ、目頭を押さえて「うっ」と唸った。
「遠藤さん、だ、大丈夫?」と、松村が思わず歩み寄り、遠藤の背中をさすった。
「ありがとう。私、両親はもういなくて。妻と別れ、子どもたちも出て行き……天涯孤独になってるのですが。こんな優しい気持ちをもらったのは、久しぶりで……こちらの女将さんの割烹着姿が、昔の母によく似てるんです」
遠藤は松村の手を取り、もう平気と言うように、おだやかな目で感謝した。そして、カウンターに置かれている清太楼の小さな包装紙を手にすると、何かを折り始めた。
出来上がったのは、紙ひこうきだった。

「あの頃、夕陽に向かって、家の窓から、父と紙ひこうきを飛ばしました。よく、この清太楼の包装紙で折ったんですよ」
遠藤は、愛しむように紙ひこうきを見つめていた。
真知子の白い手が、そっとそれを取った。
「飛ばしに行きましょう。あの頃の夕陽に……」
ほほえむ真知子の後ろに、松村と澤井、宮部の笑顔も揺れていた。
今にも暮れそうな夕焼け空が、みんなの瞳に映っていた。その憧憬の中を、遠藤の紙ひこうきは、どこまでも飛んで行くようだった。