Vol.119 鯵の開き

ポンバル太郎 第一一九話

 35℃を超えた粘っこい暑さが、風の抜けない都心のビル街にへばりついている。一足飛びに真夏が始まりそうな気配で、夕刻の蒸し暑さに、ポンバル太郎へやって来る客はバテ気味だった。

 どちらかといえば飲みっぷりも口ぶりも、男性より女性に勢いがある。

 高野あすかと連れの女性は、まさにその典型だった。二人がおかわりする純米吟醸のグラスは三杯目で、飲むほどに声音が高くなっている。初顔の女性は飾らないジーンズ姿で、浅黒い顔と濡れ羽色の髪に南国生まれの匂いがした。那智黒石のような大きな瞳の下に丸い鼻が座り、色白な東北美人のあすかと対照的だった。

 カウンター席で二人を斜めに見る火野銀平が
「まったくよう。愚痴とボヤキであれだけ飲めるってのは、女の得意技だな。せっかく今日は、うめえ魚を入れてんのによう」
 としかめっ面で盃をなめた。今夜の冷蔵ケースには、銀平が届けた活きのいい石鯛やイサキ、ハモといった夏の魚が目を光らせている。

 それでもあすかたちは先付の小鉢をつつくだけで、メニューには目もくれず、しゃべり続けていた。

 ふてくさる銀平に、太郎がぬる燗の純米酒を酌した。
「まあ、いいじゃねえか。俺たちとは、ストレスの抜き方がちがうんだよ。女性でにぎわう店が繁盛するてぇのは、ハル子の口癖だったしな」

 隣りで頷く平 仁兵衛は老眼鏡をずらして、あすかの連れた女性を見つめた。若い女性の声をつまみに酒を飲むのは、平の活力の源である。
「それにしても、はっきりとした顔立ちの方ですねぇ。いわゆる、ポリネシア系。御先祖は、鹿児島とか沖縄の方でしょうかねぇ」

 声をひそめた平だったが、耳ざといあすかは聞き洩らさなかった。
「平先生、初対面の女性に失礼ですよ。海(うみ)ちゃんとお話しするなら、こっちにいらして」

 諌めるあすかに平が赤面すると、視線を合わせた女性も恥じらうようにうつむいた。女性は“海”の名を気にしていると太郎が察した時、ほろ酔いの銀平が口をすべらせた。
「う、海だってぇ? なんでぇ、その名前は?」

 銀平の素っ頓狂な声に、テーブル席の男も失笑した。途端に、あすかの顔が上気して眉が逆立った。
「なによ! あんただって、古臭い“銀平”じゃないの。謝りなさいよ、海ちゃんに!」

 今夜は虫の居所が悪いのか、いつにもましてあすかの舌鋒は鋭い。どうやら、海という名の女性が打ち明ける話に立腹しているようだった。
「てっ、てやんでぇ! 俺は、けなしてんじゃねえよ。珍しい名前だってんだよ。まったく、何かってえと、すぐに尖んがりやがって」

 旗色の悪い銀平が抗弁すると、店内の客が海を見つめてざわついた。

 平が割って入ろうと腰を上げた途端、海が立ち上がった。
「あすか。もう、よして……私、帰るわ。やっぱり自分は、古臭い嫁なんだ」
「あっ、そ、そうじゃないの。海ちゃん、勘違いしないで。さっきのは言葉のあやだよ」

 勘定をすまそうと海が取り出した財布から、電車の回数券がカウンターに落ちた。行先の“勝浦”の名に千葉県出身の太郎は懐かしさをおぼえたが、海はあすかに愚痴を重ねた。
「もう、いいの。義母の甘やかしをあすかに聞いてもらって、スッキリしたから。でも、毛抜きで干物の骨を取るのだけは、私、やっぱりできないわ。せめて魚の骨ぐらい、自分で取れる息子に育てなきゃね」

 その語末を耳にした銀平が、海の前へ立ちふさがった。
「ちょ、ちょっと、待ってくれ! 今の話し、じっくり聞かせてくんねえか……いや、さっきの俺の失言は謝るよ、すまねぇ。海さんを馬鹿にしたわけじゃねえんだ」

 深くおじぎをした銀平は、面目なさげに剃った頭を掻いた。困り顔の海に、あすかが席へ戻ってと目で言った。

 あすかは太郎や平にも、海の素性を問わず語った。銀平は聞き漏らしたくないのか、海の横に席を移った。
「佐藤 海さん。旧姓は湊屋 海さんで、生まれは千葉の勝浦なの。都内のサラリーマン家庭に嫁いで、子どもさんは五歳。御姑さんに子どもを任せて、私の出版社でパート勤務してる。海さんの実家は、元々、勝浦の網元。だから、雑誌の企画や記事になる魚料理にも詳しいの」

 あらためて紹介された海は、気恥ずかしげに会釈した。暗い印象を受けないのも、漁師町で育った根あかな人となりに思えた。
「そんな海さんが干物の骨を抜くなど、因果なお話しですねぇ」

 今しがたの海の愚痴を、平が気遣った。聞いた面々は海の姑が孫を過保護に育て、魚の骨さえ取らせないのだと察した。

 銀平も、平に調子を合わせて問いかけた。
「なんでぇ、それなら海さんの御先祖はうちのお仲間じゃねえか。実は、築地の乾物屋にも骨抜きの干物を売る店が現れてよ。最近、子どもや高齢者向けにスーパーで並んでるらしいが、実際、家庭じゃどうなんでぇ? 本当に骨を取ることを、子どもに教えてねえのかよ」

 海は、ためらいがちに頷いた。独身のあすかは黙っている。普段なら雑誌記事のネタにするところだが、海の胸中を慮ってメモ帳はカウンターへ置いたままである。
「ええ、息子の同級生の家も骨抜きした干物が増えてるみたいです……でも、それより私はスーパーで売ってる干物自体が合わないの。勝浦で生まれ育った頃、お祖母ちゃんが干してた鯵の開きが忘れられなくて。どうして、あんなに美味しかったのか、今でもわかんない」

 銀平が、大袈裟に何度も頷いた。

 クスリと笑った海は、料理人の太郎へ顔を向けた。祖母の開きが美味しかったわけを、弱音をこらえる海の目が訊ねていた。

 あすかや平だけでなく、店内の客たちも太郎へ視線を集めた。
「じゃあ海さん、10分ほど待ってもらえるかい。あすか、悪いが冷蔵ケースにある和歌山の純米酒を取ってくれねえか」

 太郎の声に、あすかは「えっ、ええ……」と生返事して一升瓶を取り出した。要領を得ないのは銀平も同じで、海と一緒に小首を捻っていた。

 一人だけ、平はにんまりしながら、厨房の冷蔵ケースから自家製の鯵の開きを取り出す太郎を見つめていた。
「鯵の開きってのはよ。二つに開く時から、味が決まるんだよ。体の曲がり具合に沿って、身を開かなきゃいけねんだ。左右が同じ厚さでなきゃ、旨味のバランスもよくねえ。それと、頭まできっちり半分ずつ残すこと。頭から出る脂ってのは、身の脂よりも苦みや渋みがあってね。干してる間にそいつをなじませるのも、うまい鯵の開きのコツだ」

 太郎は脂で光る鯵の開きを見せながら、海の祖母はそんな仕事をきちんとこなしたにちがいないと説いた。そして、和歌山の酒と鯵の開きを手にして厨房へ入った。

 干物を炙る音も煙も立たない時間を、客たちは固唾を呑むようにして待った。5分後にようやくいい匂いが漂い始めると、海がはっと表情を変えた。
「こ、この匂いだ! お祖母ちゃんの鯵の開きだわ! いったい、どうしてなの?」

 興奮する海が両脇に座るあすかと銀平に訊ねたが、二人も狐につままれたといった顔つきだった。
「海さんが思いもつかねえのは、仕方ねえけどよ。おめえたち二人は俺から何度か聞いて、わかりそうなもんだぜ。海さんの生まれ育った勝浦って町に、理由があるってことをよ」

 しかめっ面の太郎に、銀平は腕組みをして勝浦の名をつぶやいている。

 焼き上がる干物へ鼻をひくつかせる平が、思案顔のあすかにヒントを投げた。
「銚子の醤油は、どこから来たのでしたかねぇ」

 店内の客がますます悩ましげな表情になった時、気づいたあすかは顔を上げた。
「……和歌山だ。千葉の勝浦って、和歌山にある町と同じ名前だった。江戸時代に和歌山から船で来た人たちが作った町。だから海ちゃんのお祖母ちゃんも、その御先祖様も……」
「そう! うちは和歌山に本家があるのよ」

 海の答えにようやく両手を打った銀平が、そのまま、あすかの口を止めた。
「おっと! その先は俺に言わせな。太郎さん、鯵だけじゃなく、勝浦の干物は、作る前に酒をたっぷり塗ってんだろ。だから、旨味が強く引き出されてる。そもそもは移民だから、和歌山の地酒を干物に塗ってたんだろ。今は、それとよく似た勝浦の辛口の酒だろうけどよ」
「遅せえんだよ、お前は。地酒と魚の関係をしっかり勉強しろい……海さん、焼き上がった鯵の開き、どうだい?」

 太郎がふっくらと身の盛り上がった鯵の開きを、海に差し出した。ふっと酒のいい香りも漂った。

 動揺する海の箸がせわしなく骨をさばいて、白身を口に運んだ。

「美味しい! これです。これなら私、大丈夫なの。息子は、骨を自分で取ってでも食べたいって言うはず。もちろん義母だって、声が出ないと思います。してやったりだわ!」

 丸まった海の黒い瞳に、ツヤ光る鯵の開きが揺れていた。
「よ~し! 俺も築地の会合で、この干物の作り方を披露してやる。昔ながらの江戸っ子の魚屋が、骨抜きにされてたまるかよ。ついでによ、干物と日本酒の相性ってのも講義してやるぜい」
 銀平は鯵の開きに舌鼓を打ちながら、太郎の解説をメモしようと白紙の伝票をはがした。そして、あすかが手にしていた鉛筆を奪って舌でなめようとした。
「ちょっと、バッチいよ! どうせ銀平さんは、太郎さんの受け売りをしゃべるだけでしょ! 頭で覚えなさいよ」
 銀平が歯噛みすると、太郎も干物に酒を塗った刷毛を手にしてイジくった。
「そうだな。脂がのった時の銀平は、やたら口もすべるからな。一度、干物みたいに枯れてみたらいいんじゃねえか。そしたら、おめえの顔に酒をたっぷり塗ってやるぜ」
 客たちにつられて、食べるのに忙しい海がようやく笑った。
 鯵の開きは、もう骨を残すだけになっていた。