Vol.120 五百万石

ポンバル太郎 第一二〇話

 梅雨を忘れたかのような入道雲が、スカイツリーの背景に湧き立っていた。

 アスファルトを焦がす陽射しに、ビルのパネルスクリーンは熱中症の注意喚起を繰り返していた。雀もカラスも、街路樹の陰へ逃げ込むほどである。

 日暮れ時、ポンバル太郎の商店街も急場しのぎの手作りミストを散布し、それを浴びてやって来た客たちは冷えたスパークリング酒を欲しがった。
「冷えた酒は、イッキ飲みしちゃダメですぜ。すぐに酔いが回っちまうから、まずは仕込み水を飲んでもらいやしょう」

 オーダーで忙しい太郎に代わって、火野銀平は蔵元の仕込み水を客席へふるまっていた。

 右近龍二は出張中で、平 仁兵衛は大阪の中之島哲男から招かれ、今夜の常連客は銀平だけである。高野あすかも、まだ姿を見せていない。

 太郎はこの時期、蔵元の仕込み水を普段の三倍ほど注文している。脱水症状を補うだけでなく、超軟水から中硬水まで“きき水”も楽しめるとあって、客たちに好評だった。年輩の客からは、生まれ育った出身地の名水自慢も聞こえた。

 そんな中、カウンター席に座る若い男は仕込み水を口にせず、自前のペットボトルを鞄から取り出した。

 五分刈り頭と日焼けした顔が、ジーンズと白いTシャツに似合っていた。まだ二十代後半とおぼしき、引き締まった体躯である。
「この水、持ち込みで飲んでもかまいませんか?」

 レッテルもなにもない、透明なペットボトルだった。

 太郎がためらうと、すかさず火野銀平は口を挟んだ。
「あのよ、そのボトルの中身は水なのか酒なのか、わからねえよ。ちゃんと店主に味見してもらうのが、筋ってもんだろ」

 それでも銀平の表情は、言葉とは裏腹におだやかだった。

 男は五百万石を使った富山の純米酒を飲み干し、端正な顔立ちがほんのり赤らんでいた。飲み方はいたって静かで、肴はへしこや酒盗を頼み、歳に似合わず独酌の嗜み方を知っていたからである。太郎も同感のようで、それゆえ男の取り出したペットボトルをすぐには拒まなかった。
「そうですね、失礼しました。マスター、僕は黒田 健と言います。富山の砺波市で農業をやってます。この水は、うちの井戸に引いてる裏山の沢水なんです……Iターンした砺波に暮らして三年目、ほかの水が口に合わなくなりまして」

 若い男はペットボトルを太郎へ渡しながら、富山の酒のおかわりを頼んだ。名前と素性も打ち明けた黒田へ、店内の客が興味ありげに目を向けた。

 ペットボトルの水を味わった途端、まばたきひとつしない太郎に、うまい水と察した銀平が喉を鳴らした。

 目の色が変わった太郎は、黒田をまっすぐ見つめている。
「言葉使いからすると、以前は東京で働いてたんだろ。どうして、富山の農家に転身したの?」
「五百万石に惚れたんです……日本酒が飲めなかった僕を変えたのが、富山のスッキリとした純米酒。五年前、僕を虜にしたのは、沢水で育った砺波産五百万石を使った酒でした」

 都内の金属メーカーで営業職をしていた黒田は、商談接待の席で日本酒を飲むのが苦手だった。翌朝の宿酔や頭痛を思うと客の酌を受けられず、契約が御破算になることさえあった。

 だが、研修で訪れた金属メーカーの砺波工場の宴会で、すこぶる飲みやすい地酒と出逢った。あまりの美味しさに、工場スタッフへ訊けば砺波の棚田で作る五百万石の酒だった。

 その米を育て、酒を醸す沢水は金属メーカーも使っている超軟水と同じ水源だった。高品質の金属製品が生産できるのは、豊富な雪解けの沢水の恩恵と言っても過言ではないと工場長も胸を張った。同じ水を黒田は井戸に溜め、田んぼにも入れていた。

 瞳を輝かせて語る黒田に、銀平だけでなく客たちも聞き入った。単なる農業Iターンでなく、極上の五百万石を作りたくて修業を重ねている黒田に周囲は目を細めた。
「なるほど、黒田君自身が超軟水で生まれ変わったってわけか。確かに、この沢水はすこぶる無味無臭。ミネラル水とは真逆だ。モロミにすると溶けやすい五百万石とは相性抜群だな」

 太郎は黒田の前に二杯目のグラスを置いて、問わず語りを始めた。グラスへ傾けた酒瓶のレッテルに銀平が眉をしかめると、太郎は黙っていろと目顔で言った。

 割れやすい性質の五百万石は、精米がしずらい。加えて溶けやすいので、硬水系の水を使うと旺盛に発酵しすぎるきらいがあって、スッキリした淡麗味になりにくい。ゆえに、失敗する可能性も高い。また、手つかずの原風景から生まれる超軟水の沢水は、市街地の生活排水が入ってしまう田んぼの水とは格段の差があり、米粒をしっかり育む。

 原料もモロミも双方が同じ品質の天然水で育つわけだと熱っぽい太郎を、銀平は久しぶりで目にした。

 だが、ふいに太郎は声音を変えた。
「でもな、黒田君は足りないものがある。これから、五百万石の篤農家になるためにな。沢水ってのは日本中に湧いてる。その水で育つ、いろんな五百万石を知ることだ。ほかの酒だって飲まなきゃダメだ。避けて通ってちゃ、酒米造りは上手くならない」

 図星を突かれたのか、黒田は動揺した。それをはぐらかそうと二杯目の酒を口にして、安堵の表情を浮かべた。
「無理です。この砺波産五百万石の味わいしか、体が受けつけないんです」

 周囲の客たちが頷く中、銀平はほくそ笑んだ。
「あながち、そうでもねえよ。その酒、おめえのお気に入りじゃねえし」
「えっ!? ど、どういうことですか」

 青ざめる黒田が、銀平から太郎へ真顔を向けた。太郎がカウンターへ置いた一升瓶のレッテルは、福井県産の五百万石を使った純米酒だった。
「見分けがつかねえほど、これも淡麗な味だったろう。しかも、この五百万石と酒は九頭竜川の沢水で作られている。水質は、黒田君が持って来たのと変わらない超軟水だよ」

 愕然とする黒田の前に、太郎はその福井の仕込み水も差し出した。
「その理由を知りたければ、自分の好みに合う淡麗な酒や仕込み水を試してみることだ。その探し方は……おっと、指南役がやって来たな」

 おもむろに福井の水のグラスを口にする黒田を、太郎の視線が誘った。玄関の鳴子を響かせたのは、高野あすかだった。

 カウンター席へ座るなり、太郎から事情を聞かされたあすかは得意げに取材手帳を広げ、
「黒田さん。それじゃあ、本当に井戸の中の蛙になっちゃうわよ」
 と自分の知り得ている仕込み水と五百万石の特長、淡麗な酒の味わいのちがいを黒田に教えた。黒田は太郎へメモ紙をもらうと、脇目もふらずに書き取った。
「ちぇっ! 結局、また美味しいところをあすかに持ってかれちまった」
 くさる銀平の前に太郎は全国の仕込み水の瓶を並べて、いじくった。
「築地育ちの銀平の御先祖様は、江戸のしょっぺえ水しか飲んでなかっただろ。だから、おめえのDNAからすりゃ、たいていの仕込み水はうめえはずだよ。それに五百万石だろうが山田錦だろうが、どんな酒だってうめえだろ」
「あったぼうよ……って、それって俺はバカ舌ってことじゃねえかよ」
「まあ、九頭竜川の水で作った五百万石の繊細さが分かるにゃ、まだまだだな」
 沸き起こる笑い声につられた黒田の手が、また福井産五百万石の純米酒に伸びていた。