Vol.153 燗冷まし

ポンバル太郎 第一五三話

 那覇で桜が咲いたと報じる渋谷スクランブル交差点のネオンを、寒の戻りでまだマフラーの手放せない人たちが羨ましげに見上げていた。
 竹下通りのファッションショップでは、残りわずかな冬物のコート在庫が半値以下の最終処分で売られている。東京の三寒四温は、まだ続きそうである。

 ポンバル太郎へニット帽で顔を覆った火野銀平がカウンター席に着くなり
「飛び切り熱い燗を、頼まあ!」
 と店内の温もりに顔を火照らせた。満員のテーブル席からも燗酒の注文が続き、お燗番の剣は脇目もふれない。一本目のお銚子を開けた平 仁兵衛は、のんびりした箸使いでお代わりを待っている。その隣に座る厚い綿入れ半纏を着込んだ白髪の男に、銀平が目をみはった。

「おっ! こりゃあ、葵家の伝兵衛さん。珍しいじゃねえですか」
 築地の神様と敬われ、市場の御意見番で通っている葵 伝兵衛が、歳の近しい平と酌み交わしていた。手元には、古めかしい陶器の“燗だぬき”が置いてある。
「おう、銀平かい。この燗だぬきを、ポンバル太郎へ置かせてもらおうと思ってよ。面目ねえ話だが、わしもヤキが回っちまって血圧が高くてよう。医者から、晩酌は週に一度だけにしろと念を押されちまったんでぇ。うちの息子たちは一滴も飲まねえ下戸だから、諸手を上げて賛成しやがった。だからよう、この燗だぬきを処分するてえのを口実にして、太郎さんの店へ毎週来ることにしたんだよう」
 ほころんだ目じりの皺が赤いのは、酔った伝兵衛の特徴である。早朝の築地を見廻りながら声を張り上げている時とは、まるで別人だった。昭和の思い出を語り合う平との盃を、うまそうに傾けていた。

 頭の上がらない存在の伝兵衛が週一で現れると聞き、銀平は声を呑み込んだ。剣が、その困り顔を覗きこみながらイジッた。
「えへへ、銀平さん、ますます分が悪くなっちゃうね」
「な、なんだとう! やい剣、油を売ってねえで、さっさと酒を売れ! 湯煎から出した燗酒が、すっかり冷めてんじゃねえか!」
 確かに、熱燗が過ぎないように燗どうこから取り出したお銚子は、数本が冷めかかっていた。厨房の太郎も手伝いたいところだが、テーブル客が注文したクエ鍋の仕度で手が回らない。

「わ、分ってるよ! 冷めた酒は父ちゃんが料理酒に使うから、無駄にはしないさ」
 剣が負け惜しみを口にした時、伝兵衛が平に注ぐお銚子の手を止めた。
「おい銀平。おめえ、本当に築地の男なのか。昔、燗冷ましは築地市場じゃ、一番贅沢な酒だったてえのによ」
「へ!? そうでしたっけ? ……そういや確かに、俺がガキの頃、朝っぱらから祖父さんはほんのり赤ぇ顔して、ちょいと酒の匂いもさせてたなぁ」
 亡き祖父の火野銀次郎を思い出している銀平の横顔を伝兵衛は叱りつけず、ふっと短いため息を吐いた。

 平が燗冷ましになったお銚子を剣から受け取り、伝兵衛へ差し出した。文字通りの斟酌を受けながら、伝兵衛はしみじみと問わず語った。
「わしが若ぇ頃なんざ、燗冷ましを“馬力(ばりき)”って呼んでよう。アルコールが少しだけ残ってるから、仕事に差し障りが少なくってな。真夜中から暁の頃まで仕事する築地の男にゃ、ほどよく酔えて、そこそこ体のあったまる燗ざましは具合が良かったんでぇ。それを俺に教えてくれたのは、火野屋の銀次郎。つまり、おめえの祖父さんなんだよ。まあ、今の築地じゃ、朝酒は御法度だけどな」
 束の間、伝兵衛のしゃがれた声が店内に響くと、客たちの注目は茶色い燗だぬきに集まっていた。ほろ酔いになって満足げな伝兵衛が、ゆっくりと腰を上げて剣へお勘定を頼んだ。

 燗冷ましに手をつけない銀平に、伝兵衛が言った。
「築地の者は、朝が早ぇんだ。ダラダラ飲んじゃ、いけねえ……それが燗冷ましを好きだった、銀次郎さんのいつものセリフだったぜ」
 太郎へ右手を上げた伝兵衛は、葵の紋を染めた綿入れ半纏の肩を揺らせて出て行った。客席から「男だぜ!」「粋だねぇ!」と、つぶやきが聞こえた。

 クエ鍋の用意をテーブル席へ運んだ太郎は
「おめえ、これからは伝兵衛さんの燗だぬきを使わせてもらって、燗ざましも飲めばどうだよ」
 とうつむき気味な銀平を冷やかした。
 意味ありげな物言いに平が気づいた時、太郎の手が、伝兵衛の燗だぬきを銀平の前に置いた。
 空になった燗だぬきを太郎がひっくり返すと、底に「火野銀次郎」と名が刻まれていた。
「あっ、じ、祖父さんの……てえこたあ……」
 頭をもたげた銀平の前に、太郎は燗冷ましのお銚子も置いた。
「燗だぬきを置かせてくれって頼まれた日、伝兵衛さんは嬉しそうに、お前の祖父さんに鍛えられた頃の話をしてくれたよ……自分も葵家の息子たちへ燗冷ましを教えようとしたけど、下戸で飲まねえ。それに、今は仕事に酒で勢いをつける時代じゃねえってな。だから、体の事も考えて、うちで燗冷ましを嗜むことにしたそうだ」

 太郎が打ち明けると、長いため息を吐いた銀平へ平も続けた。
「銀平さんを、息子のように思っているんじゃないですかねぇ。息子さんと同じ年頃の銀平さんと酌み交わす燗冷ましは、伝兵衛さんの残り少ない楽しみで、銀次郎さんへの恩返しじゃないですかねぇ」
 しみじみとした平の声音に合せて、銀平の指が燗だぬきの“火野銀次郎”の文字をなぞった。
「はっきり言わねえのも、俺の祖父さんにそっくりだ。まったく、昔の築地の男は頑固でよう」
 目頭をうっすらと光らせる銀平に、剣が燗冷ましのお銚子を差し出した。
「じゃあさ、僕が大人になったら、築地の燗冷ましを教えてね」
「ちぇ、しょったこと、言いやがる」
 その言い草とは裏腹に、銀平のぶ厚い手のひらが剣の頭を撫でた。