Vol.192 甕口酒

ポンバル太郎 第一九二話

 木枯らしの運ぶクリスマスソングが、新宿や池袋の人出をあおっていた。忘年会シーズンを迎えて、居酒屋の呼び込み合戦もピークである。
 今年は節約志向がはっきり見えて、立ち飲み屋で済ませる忘年会も人気だった。そのせいかオオバコのチェーン店には、客寄せに早くも大手メーカーの2016byの新酒が登場している。

 ポンバル太郎にも最初に搾った“あらばしり”が並び、連日、大入りの客席でお手伝いの剣が動き回っている。
「いいぞ、少年! しっかり汗かいて、稼げよう! おめえが大人になった時、不労所得者ばかりだと日本はダメになっちまわぁ」
 頬の赤い火野銀平が大入りの御礼の冷酒を飲み干して、嬉しげに声を上げた。その一升瓶を客たちがお目当てにする理由は、今、注目を集めている入手困難な広島酒だからである。

 銀平の隣でひと口目を味わう右近龍二が、惚れ惚れした顔で言った。 
「それにしても、さすがにマチコさんですね。この加茂清水は、三百石造りの小さな蔵元で、都内の酒販店でも扱っている店は少ないはず。太郎さんから、マチコさんへ頼んだのですか?」
「いや、そうじゃねえんだ。マチコさんの方から、使ってみて欲しいと紹介されてね。そこに座っているのが、蔵元の専務をしている西条 実さんだよ。わざわざ広島から上京してくれてんだ」
 太郎が、剣に仕上がった料理を渡しながらカウンターの隅へ顔を向けた。緊張した面持ちのスーツ姿の若い男が、慌てて立ち上がってお辞儀をした。太郎は、明治初期から続く加茂清水の六代目だと付け加えた。

 短く刈った頭はいかにも蔵元然として、今しがた西条を誰何していた銀平や龍二を納得させた。
「初めまして、加茂清水の西条と申します。どうですか、うちのあらばしりは?」
 営業肌のように揉み手するでもなく、真顔で訊ねる西条を銀平は気に入った。
「上撰で、この旨味と風味の広がりは、さすがに甘口が王道の広島酒だな。俺は、好きだぜ」
 お前も褒めてやれよとばかり、銀平が龍二に肩を当てた。
 もちろん龍二もいい酒とばかり相槌を打ったが
「ただ、この活性した炭酸ガスの風味って、後付けじゃないですか?」
と西条へ問い返した。

 それを耳にしたテーブル席の客たちが冷酒グラスを口にして、「ふむ、このプチプチした感じね」や「ソーダっぽいよな」と頷いた。
 戸惑う銀平は、小声で龍二に訊いた。
「後付けって……おい龍二、どういうこってぇ?」
 龍二の酒を奪って飲み直す銀平に客席の注文を聞いてきた剣が飽きれ顔を見せた時、肩越しに声がした。
「また、不勉強さが露呈したわね。偉そうに、加茂清水さんを褒める柄じゃないわよ。後付けは、搾ったお酒に炭酸ガスを充填して活性した風味に仕上げること」
 龍二と銀平が振り向くと、腕ぐむ高野あすかはため息を吐いた。

 テーブル席の客も酒の口当たりを理解したらしく、「そう言うわけか」とつぶやいた。その残念そうな表情に、西条は気を引き締めるように答えた。
「後充填で炭酸ガスを入れた酒じゃありません。うちは、自社のオリジナル酵母を使っていることもあって、香りが独特なんです……やっぱり、ちゃんと蔵元から搾り立て生原酒の情報を発信しないとダメだな」
 自戒する西条の言葉に、龍二が「えっ! マジ?」と目を丸めると、あすかが銀平の手からグラスを取って利き酒した。

 酒を口の中で転がすあすかの答えを待たずに、西条は問わず語った。
「うちは、できるだけ搾り立ての“甕口(かめぐち)”の生原酒をお客様に届けたいのです。あのアルミ製の甕口タンクに搾ったばかりの黄金色をした甕口酒には、まだアルコール発酵による二酸化炭素がたくさん残っています。この炭酸ガスは酒を搾った後、常温の中では揮発してしまうので、通常のタンク貯蔵だと活性を失ってしまいます。だから、加茂清水では策を考えました。酒を上搾する前に、搾る部屋、搾る設備、そして酒そのものをすべて冷却してから作業します。こうすると、上搾後も酵素の動きがおとなしくなって、炭酸ガスの残りも良くなり、搾り立ての甕口酒に近い味わいのままサーマルタンクで貯蔵できます。それをさらに冷やした瓶に詰めて、冷蔵保管しますから、この酒のようにできるのです」

 熱のこもった西条の解説に店内が水を打ったように静まると、あすかがグラスを置いて感心した。
「確かに、これは後充填じゃないわ。ちゃんと麹の香りが生きている。搾った後で炭酸ガスを充填した物は、どうしても既成品の炭酸ガスの臭いが消えないのよ……でも、その冷却方法を加茂清水さんだけが使っているのは、もったいないな。情報を開示して、お客様に知ってもらうだけじゃなく、蔵元同士でも共有した方がいいと思いますよ」
 あすかの利き酒のしぐさとコメントに西条が驚くと、玄関の鳴子がカラコロと響いた。
「こんばんは、太郎さん。西条さんのお酒、いかがかしら」

 芍薬とした和服姿のマチコがほほ笑むと、「おおっ」と店内の男たちから声が上がった。
 久しぶりの来店へ鼻の下を伸ばす銀平に、あすかは剃った頭をピシャリと叩いた。剣が吹き出しながら、マチコをカウンター席へ招くと
「あら、剣君!? しばらく見ない内に、大きくなったわね。お父さんも、跡取りが立派になって安心ねぇ」
と剣の肩に両手を置いた。剣の背丈は、小柄なマチコをもう超えている。

 マチコは太郎と挨拶を交わすと、西条にあすかの素性を紹介した。
「なるほど、蔵元のお嬢さんですか。しかも、日本酒のジャーナリストとは……そうだ、できれば我が社へ一度いらして、取材をお願いできませんか。高野さんの知名度でこの手法を広げて頂くと、効果があるんじゃないでしょうか」
 西条の提案にあすかが手を合わせて喜ぶと、マチコも賛同した。
「いいわね! 私もお邪魔しようかしら。西条さんのお父様とも、ご無沙汰していますしね。よろしければ、太郎さんもご一緒にいかが?」
 マチコの誘いに太郎は「いいですねぇ、両手に花だ!」と即答した。

 羨ましげな龍二の横で、酔いの回った銀平がマチコへ手を挙げた。
「ハイ! 俺も連れてってくださいよう。龍二、おめえは留守番だぜ。男三人じゃ、釣り合いが取れねえからよ。なぁに、土産に加茂清水の搾り立ての甕口酒を、ペットボトルにもらって来てやるからよう」
 すると、西条に名刺を差し出していたあすかが、「また、バカ言ってんじゃないわよ」と咎めた。
「なにが、バカなんでぇ! せっかく甕口を利き酒させてもらうなら、少しぐれえ、分けてもらってもいいじゃねえかよ」
 いつもながらあすかに食ってかかる銀平の頭に、剣が冷やしたオシボリを乗せて言った。
「あのねぇ、それって銀平さん、犯罪だよ。蔵元から一歩でも外へ出たお酒は、酒税がかかるの。だから、銀平さんがやろうとしてるのは、脱税行為なの。まったく、銀平さんはてめえの脳味噌を冷却した方がいいよ」
「へっ!? そうなのかよ」
 正気に戻る銀平を客たちの笑い声が包むと、甕口酒が冷酒グラスの中で弾けた。