Vol.193 プレイボール

ポンバル太郎 第一九三話

 年末まで二週間を切ったアメ横周辺は、気のせいた年配客で賑わい始めている。
 彼らは足腰が弱ってきたこともあって、晦日の雑踏を避けたい。さらには荒巻鮭や昆布といった乾き物が、ご祝儀相場で高騰する前を狙っているのだ。
 しかし、そうは問屋が卸さないとばかり、売り手の側も丁々発止な値引き交渉に負けてはいない。アメ横に鮭や干物を収めている火野銀平も、そんな勢いに巻き込まれているのか、ここ数日、ポンバル太郎へ顔を見せてなかった。
 今夜のポンバル太郎のカウンターは、静かである。

「ようやく、年末らしくなってきましたねぇ。少し気が早いですが、太郎さん、今年もお疲れさまでした。それに剣君が立派な少年になって、ハル子さんもひと安心ですねぇ」
 新酒の純米酒をぬる燗にしている平 仁兵衛は、亡きハル子の写真が飾ってある神棚に小さく会釈して、太郎へお銚子を差し出した。
 銀平だけでなく、やっちゃ場の誠司も超多忙な築地市場から深夜まで抜け出せない。右近龍二は年末の締めに残業が続いて、まだ姿を見せない。高野あすかも、新酒の仕込み取材で地方の蔵元を回っていた。
「たまには平先生お独りってのも、ノンビリして、いいじゃないですか」
「まあ……私は現役じゃありませんから。リタイアした身の寂しさを、こういう時に実感しますねぇ」
 平の作った白磁の平盃で、太郎は酒を受けた。いつになく客席はまばらで、カウンターには平のほかに、独酌の中年男がいるだけだった。見た目は、四十歳半ばである。

 ガッシリとした大柄の男は浅黒い顔で、紺色のブルゾンの上からも、たくましい筋肉が覗えた。口にする酒は土佐の純米酒で、カツオの酒盗を肴にしている。
 ただ、盃を持つ右手はゆっくり動いたが、左手でしきりに何かを握りながら、時折、ブツブツと独りごちていた。その手の甲には、引きつった傷痕が盛り上がっていた。
 テーブル席の若いビジネスマンたちは怪訝な顔で
「あのオヤジ、薄気味悪ぃな……おい、店を変えようぜ」
と席から立ち上がると、太郎へ勘定を頼んだ。

 彼らがぼやきながら帰ると、平は独り酒で酔ったせいか、ため息交じりに洩らした。
「せちがらいですねぇ……袖すり合うも多生の縁。独り言で迷惑をかけてるわけじゃないのですから、気に入らないなら、黙ってお帰りなさい」
 カウンター席の男を斟酌するかのように、平は笑みを送った。男は一瞬、盃を口に止めたが、左手を癖のように動かしたままで言った。
「あんたと同じリタイア組だから平気ですよ……もう、人の目は気にしないよ」
 盃を飲み干した男の声は、言葉とは裏腹な、諦めとも怒りともつかない余韻を残した。リタイア組には若過ぎる男に、平が小首を傾げた。

 男の左手がギリギリ音を立てると、太郎が口を開いた。
「そのボール、ずいぶんと使い込んでますね。汗と脂で、いい色だ。それに、サウスポーですか」
 男が左手で握っていたのは飴色に光る硬式野球のボールで、縫い糸まで変色している。
 ボールをカウンターに転がしながら、男は擦り切れそうな縫い目を指先でなぞった。その茶色い革に、“直球勝負 不動永吉”とかすれた文字が残っていた。
 読みにくい、どこか子どもじみた筆致だった。

「二十年間、握力を鍛える相棒だったけど、こいつも、そろそろ限界だ。俺と一緒に、野球からは引退したよ」
 苦笑いを浮かべる男に、太郎がお銚子を酌しながら訊いた。
「もしかして、不動さんはプロの選手ですか? いい体格をなさってるし」
 名前を言い当てた太郎に、不動は恥ずかしげにボールの文字を隠した。
「いや、社会人野球。二流チームでね。高校野球までは、高知県の名門校で控え投手だった。大学野球も二番手ピッチャーでね。プロじゃ通用しないと思って、中堅食品会社に入社して、その野球部へ入った。だけど、鳴かず飛ばすのまま四十三歳を迎えて、この秋のシーズンオフに退部勧告されたってわけさ……この“直球勝負”は、去年の秋、事故で亡くなった息子が五歳の時に書いてくれた。でも、最後まで名前負けだったよ」
 三人だけの店内を、不動の自嘲がしんとさせた。それに答えるのは、厨房の鉄瓶が沸く音だけだった。

「じゃあ、これからは食品会社の営業マンとか、第二の人生があるじゃないですか。そっちで、直球勝負ですねぇ」
 年輩の平の気遣いへ、不動はありがたそうに頷きながらも
「いや、会社辞めちまったんです、息子の一周忌の日にね……今は築地市場で、ターレット(運搬車)を担当してんですよ。昔、少しだけ動かしたことがあって。でも、慣れないから失敗ばかりだ」
と左手の甲の傷痕をさすった。

 食品会社に勤めた不動が築地で働くのは縁あってのことだろうが、歳末の超繁忙期なのに大丈夫かと太郎と平が察した時、玄関の鳴子が響いた。
「やっぱり、いらしてましたか、不動さん。仕事どうすか、慣れましたか?」
 現れた右近龍二が不動へ親しげに話しかけると、平は「ほうっ!」と驚き、太郎は
「だから、土佐の酒か。てぇことは、龍ちゃんの先輩ですか?」
と新しい盃を不動の隣へ置いた。

 横に腰を下ろした龍二が不動に酌をしかけると、逆にお銚子を奪われた。
「ええ、龍二は幼なじみで、実家が近所なんです。実は、築地の仕事を紹介してくれたのは龍二でね……ようやくひと月経ったので、自分への褒美に、うまい土佐の酒が飲める店を教えろって頼んだら、この店を紹介してくれたってわけだ。おい、まずは一杯だ。いろいろ、ありがとうよ」
 不動の献杯を龍二はひと息で飲み干すと、そのまま盃を返して酒を注いだ。不動もまた、一気に飲み干した。

「おお、これぞ本物の土佐の“献杯返杯”ですねぇ。不動さんの転職サポートもですが、今夜の龍二君、いい男っぷりですねぇ」
 平が自分の奢りだと太郎へ申告してお銚子を追加すると、龍二は手を横に振った。
「いや、僕よりも銀平さんですよ。葵屋の伝兵衛社長を口説いてくれたお陰です。それと……不動さんの実家が、土佐の市場仲卸だったことも良かった。この人、高校生の頃、こっそり無免許でターレットを動かしてたんです。もう時効だけど」
 龍二が声音を下げると、盃を置いた不動が遠い目になって言った。
「調子に乗りすぎて、運転をしくじってターレットから振り落とされて、この痣ができちまった……でも不思議なことに、息子が生まれた時、左手の甲に同じような痣があった。成長すると、俺と同じ左利きだった。だから、あいつにも野球をやらせようと思った」

 息子に話が及ぶと、龍二の顔色が変わった。そして、二人の間をしばしの沈黙が埋めた。
「栄二君。生きてたら、今年のドラフトにかかってたかも知れませんね……残念です」
 不動の傷心を知り尽くしている龍二が、重たい口を開いた。太郎と平は、息子の横死への不動の落胆を察した。
「……運命だと、俺は思うようにしたよ。家内は、まだ塞いでいるけどな。だから、俺は栄二の分まで社会人野球を続けようと思ったんだが。その希望も、断たれちまった」
 不動のしっかりした口調に、龍二は安心したのか、栄二の甲子園での活躍を太郎たちへ問わず語った。

 中距離ヒッターとして打率は高校球児の十傑に入り、センターからのバックホームは、イチローを髣髴とさせるレーザービームと称えられていた。二年生だった昨夏の甲子園は惜しくもベスト8で終わったが、将来、プロでの活躍を期待されていた。
 龍二の声が止まると、不動はボールをまた握り締めた。
「会社のチームメイトも、栄二が亡くなってから、俺を避けるようになった。まあ、話しづらいわな。だから、こいつが俺の孤独を支える唯一の存在だったんだが……栄二の墓に入れてやろうかと思ってね。もう、野球を忘れちまいたい」
 不動の声はしだいに細くなって、唇が震えていた。

「そ、そんな……もったいないすよ。まだまだ、趣味でも続けられるじゃないですか」
 龍二がお銚子を差し出したが、不動は盃を置いたままだった。
 じっと目をつぶって聞き入っていた平も、龍二を後押しした。
「さようです。気持ちが落ち着かれたら、少年野球の監督はいかがでしょうか。亡くなった息子さんも、そう望んでおられるんじゃないですか」
 しかし、不動は口元を真一文字に結んで、無言のままだった。
 その時、玄関の鳴子がひときわ大きく響いた。

「いたいた! 不動さん、俺たちにコーチをしてくれよ。築地の連中はよぅ、キャッチボールが休憩中の楽しみでよ。それに、草野球のチームだって、いろいろあるんだぜぇ。いつまでも悩んでちゃ、ターレットの運転が危なっかしくていけねえや」
 火野銀平の大きな声が店内に反響すると、ドヤドヤと屈強な男たちが入って来た。
「どうやら大忙しの築地市場も、ようやく一段落付いたみてえだな。打ち上げかよ」
 太郎の声に銀平が「まあね」とほくそ笑むと、龍二と不動の間にやっちゃ場の誠司が立った。そして、真っ白い硬式ボールが入った箱を差し出して言った。
「不動さん。これ、俺たちからのささやかな転職祝いです。あんたが社会人野球の選手だったって聞いて、もう、みんな興奮しちゃって! ぜひ、明日から休憩時間にキャッチボールを頼みますよ」

 ためらう不動の左手に、龍二がボールを握らせた。
「不動さんの素性は、みんな知ってます……このボールが、また、いい色になるまで、築地で汗と脂を染み込ませて下さいよ」
 握った不動の手の甲に、赤く痣が浮いた。その上に、銀平が分厚い手のひらを重ねた。
「あんた、独りじゃねえよ……築地じゃ、みんな仲間だ。そのボールに、もう一度“直球勝負”って書きなよ。第二のプレイボールは、これからだぜ」
 いつの間にか銀平の周りを囲んだ男たちも、不動の拳に手のひらを重ねて頷いていた。
「あ、ありがとう……よろしくお願いします」
 不動が右の手のひらを一番上に乗せると、目頭をぬぐった太郎が土佐酒の一升瓶をもう一本開けて声を発した。
「ようし、今夜は俺の奢りだ! じゃんじゃん飲んでくれ!」
 拍手と歓声が巻き起こり、そこかしこで土佐の献杯返杯が始まった。
「どこに移転したとしても、築地の男たちは、熱いままですよ」
 平と太郎も盃を交わしながら、目尻をほころばせた。