Vol.203 カスベ

ポンバル太郎 第二〇三話

 山手線や地下鉄のホームに、どことなく垢抜けしない雰囲気の若者が増えていた。緊張した面持ちからも、上京して来た受験生と見て取れる。
 あいかわらず都内のホテルは外国人観光客のせいで空室が少なく、値段の安さで民泊を利用する者も多くなっている。電車のシートに座る熟年女性たちは、学生たちが安心して宿泊できないのは可愛そうだとこぼしていた。

 ポンバル太郎の近辺にも自宅を改修した民泊が増えたせいか、ここ数日、食事だけにやってくる受験生とおぼしき青年がいた。色白で長身の若者は、注文する言葉に癖はあるが、東北弁ほどハッキリは訛らない。
 三日目の今夜もカウンターの隅に座った青年は「こんばんは」と太郎につぶやくと、遠慮気味に冷蔵ケースの魚を覗きながら、マグロの刺身と小芋の煮物、そして、アサリの味噌汁にご飯を注文した。

「毎晩、ありがとうよ。受験生かい? 風邪を引かねえようにしねえとな」
 食後に太郎が熱い生姜湯を作ってやると、緊張の糸がほぐれたのか、青年は「ありがとうございます」と純朴そうに頬を赤くした。
 そのようすに、ぬる燗の純米酒を口にしながら目を細める平 仁兵衛が声をかけた。
「あなたは、北海道からいらしたのですか? 大変ですねぇ」
 平の読みは当たっていたらしく、青年がギョッとした顔をして、生姜湯を吹き出しそうになった。

「ごめんなさいねぇ。それですよ、日本ハムファイターズのスマホケース」
 青年の手元に置かれたスマホケースには、昨年大活躍したプロ野球選手が写っていた。
 平の声に、テーブル席の男性客の一人が「あ、大谷だ!」と背伸びしてスマホケースを見つめた。
 合点のいった青年が笑みを浮かべてスマホに手を伸ばした時、呼び出し音が鳴った。そして、画面表示を食い入るように見つめると、表情を硬くして「はい、山田です」と電話に出た。

「母さん、大丈夫だよ。居酒屋だけど、ちゃんと食べてるさ。僕は平気だから……父さんの話は、もういいよ」
 太郎と平は、独りで上京した息子を心配する母親からの電話と判った。民泊に滞在していれば、食生活が気にかかるのは当然だった。
 親からの電話と判っていても、きちんと名前を名乗った山田に、平は躾の良さを感じた。
 ため息まじりで電話を切った山田に、カウンター越しに平へお酌をする太郎がつぶやいた。
「できれば、手作りの料理を食べさせて、試験に臨ませたかったはずだよ。お母さんの気持ち、ありがたいじゃないか……それに、うちは居酒屋だから、酒を飲む客の中じゃ落ち着いて食事もできねえと思って、心配なんだろうよ」

 酒を満たした盃を口元で止めた平が、はたと気づいた。
「言われてみると、山田君はどうして、ポンバル太郎へ食事に来たの? この近くには、定食屋さんも何軒かあったでしょう」
 聞き耳を立てていたテーブル席の客たちも
「そうだよ……まさか、酒飲みに来たわけじゃないよな」
と苦笑いをした。
「そりゃ、大丈夫だ。彼は三日間、来てくれてるけど、きちんと食事をしてるだけですよ……ただ、気になってるのは、君はいつも冷蔵ケースの中を探ってる。何か、食いたい物があるんだろ?」
 太郎の問いかけに山田はひと息置くと、ぼんやりとした視線を冷蔵ケースに向けた。

「東京の居酒屋なら、北海道料理の“カスベ”があるかもと思ったんですけど……父の大好物でした。いつも、晩酌は北海道の地酒とカスベの煮つけでした。亡くなって、半年になります……母も心労が重なってて、よけいな心配をかけたくないので、あんな電話になってしまいました」
 山田の声音が弱まると、聞き覚えのないカスベに小首を傾げていた客たちは、受験直前に父親を失った彼の気持ちを斟酌して黙り込んだ。つかの間、静けさに覆われたカウンターで平が口を開いた。
「どこでしたかねぇ……カスベって、聞いたことがあるんですけどねぇ」
 記憶をたどっているふりで悲しげな表情を隠す平は、カウンターに頬杖をついた。

 ただ一人、しっかりと頷いた太郎が
「残念ながら、カスベはうちのメニューにもねえな」
と答えた時、玄関の鳴子が響いて、火野銀平と八百甚の誠司が入って来た。
「太郎さん、火野屋のエイひれを代用してみるかよ。あれをダシで戻せば、アカエイのカスベに似た料理ができるんじゃねえかい? 作り方は、ネットで検索すりゃ出るだろう」
 ぶっきらぼうな口調だが、いきなり親身な人柄の銀平に山田はポカンと口を開けた。さすがに魚匠の銀平だけに、カスベのことは承知している。

「そうそう! アカエイですよ。昔、札幌で食べたカスベの煮こごりは、最高でした」
 両手を打って平が思い出すと、またもや鳴子の音がして、冷えた夜風と一緒にかすかなシャンプーの匂いがした。
「カスベの煮こごりって、どんな物だ?」と顔を見合わせていたテーブル席の客たちは、玄関に立つ高野あすかへ注目した。
「でも銀平さん、ダシで戻したって、すぐにはダメよ。エイって、時間が経つとアンモニア臭が出るの。だから、エイのひれを干しても、多少臭みが残ってるでしょ」
 単刀直入なあすかの指摘に、そこかしこの客が、最近BS放送で見かける酒食文化のジャーナリストだとつぶやいた。
 銀平たちを押しやるようにカウンター席へ座ったあすかは、問わず語りを始めた。

 アカエイは味噌煮、焼物、吸物、煮物、煮こごり等の料理になる。食べるのは、ヒレや軟骨だけ。特にエイは、トリメチルアミンという物質が多くて、アンモニアとともに悪臭を放つ。それを抑えるためにも、長時間、調味料やダシに漬ける必要がある。特に、日本酒も漬けダシには多めに使った方が良いと言った。
「なるほど~、炙ったエイひれが酒の肴にピッタリなのは、その臭いのせいか」
 誠司が感心すると、銀平が「また、イイとこを横取りしやがって」とあすかに眉をしかめた。

「じゃあ、今夜一晩ダシに漬け込んで、明日の昼から煮込めば、夜にはいい具合になるってわけか。残り物は冷蔵庫に入れりゃ、明後日は煮こごりもできるって寸法だ。山田君、残り二日間は、毎日、カスベを食えるようにしてやるぜ。だから、試験を頑張れよ」
 太郎の配慮に、テーブルだけでなく店内の客たちが拍手を送り、
「マスター! 俺たちにも、カスベの煮こごりを置いといてね」
と期待する声も上がった。
 その間、山田とのなりゆきを銀平と誠司、あすかは、平から聞かされた。

 腕ぐみをして深く頷いた銀平が、誠司に「おい!」と顎をふった。
「がってんでい!」
と誠司があ・うんの呼吸で、冷酒グラスを山田の横に置いた。
「えっ!? 僕は未成年ですから、飲めませんよ」
「そうじゃねえよ。これは、亡くなったお父さんの酒だ。息子の受験が気になって、きっと、傍にいるにちげえねえよ」
 誠司が山田の肩を二、三度叩くとあすかは嬉しげに銀平の脇腹を突いて、聞こえよがしに声音を高くした。
「そうねぇ! たぶん、明日は活きたアカエイの身を、どこかの誰かさんが築地の中を走り回って、探してくれるんじゃないかしら」
「おう、俺も今、そう思ってたところだ。なあ、銀平!」
 太郎もほくそ笑むと
「銀平さんなら、朝めし前ですねぇ」
と平が盃を差し出した。
「まったく! 勝手なことばかり言いやがって……分かったよ。山田君、任せておきな!」
 銀平が盃を飲み干すと、誠司が「よっしゃ!」と指を鳴らして、山田に向かって目顔でスマホを指した。
 表情をほころばせる山田が、母親の携帯番号を押した。
 呼び出し音が聞こえる中、山田は酒を満たした隣のグラスに「父さん、頑張るよ」と瞳を潤ませた。