Vol.82 江戸前

ポンバル太郎 第八二話

 六本木や赤坂の街路樹が赤や黄色のグラデーションを帯びて、道行く女性たちの服装も秋めいていた。
日暮れとともに都心は冷え込み、連れ合うサラリーマンたちが赤ちょうちんや縄のれんをくぐっている。ポンバル太郎でも、ようやくカウンター越しに登場したおでん鍋の湯気に、来店する客たちは視線を止めた。
大吟醸のグラスをなめるジョージも視線を釘付けにされている。彼は日本に来てから、太郎の作るおでんをまだ口にしていない。ダシのしみた大根やちくわぶにそそられるジョージの前で、太郎が串を打ったおでんダネを銅製の鍋に入れた。
「おう! 太郎さん、その貝は最近話題になっているホンビノス貝ですか? 私、大好きです。アメリカの東海岸では、クラムチャウダーやワイン蒸し、西洋わさびを加えたカクテルソースでも食べます」

 おおぶりの貝の身に、ジョージが唾を呑み込みながら訊いた。
「いや、ちがうよ。うちじゃ、ホンビノスは使わねえ。これは東京湾で獲れた、本はまぐりだよ」

 その大きさに目をしばたたくジョージへ、太郎は本はまぐりの貝殻を見せた。

 すると、カウンターの隅に座る老齢の男が太郎の手元を見つめた。初めての客で、半時間ほど前から熱燗の灘の本醸造を傾けながら、静かに湯豆腐をつついていた。
地味なグレーのセーター姿の男は貝殻を覗き込むようにして、無精ひげが残る口元を動かした。
「ほう……なかなか、いい形のはまぐりだ。大将、そいつぁ江戸前かい?」

 男のなれなれしい口ぶりに、太郎は職人気質を感じた。
「ええ、今朝、三枚洲で揚がった物です。よかったら塩焼きで、いかがですか」

 太郎はみごとな厚さのはまぐりの殻を手にして、男に答えた。しかし、男の目尻はゆるんでおらず、一瞬、息を止めて殻の色ツヤを確かめているようだった。
「そうかい……ところであんた、寿司も握れるんだな。じゃあ、アオヤギはあるかい?」

 店の壁に貼った“江戸前の握り寿司あります”の和紙を一瞥して、男が言った。

 ポンバル太郎では初めて出したメニューだが、なかなか値の張る寿司を頼む客は少なく、男の声にテーブル席の客たちが視線を向けた。
「ええ、あります。ただ、三枚洲じゃなくて木更津のアオヤギですが、よろしいですか?」
「ふっ、能書きはいいからよ、まずは食わしてくれ」

 男の江戸っ子めいた強気な口調にテーブルの客たちが眉をひそめると、ジョージは平気な顔で訊ねた。
「あの、すみません。三枚洲って、なんですか?」
「あんた、アメリカの記者さんだろ? 俺から説明するのは、ちょいとまどろっこしいや」

 男はジョージへ嫌味を返すでなく、照れくさげに頭を掻いた。どうやら男は、ジョージのことを聞き及んでいるようだった。
太郎がそのようすを目の隅に置きながら寿司のシャリを手にした時、玄関扉が鳴子の音を響かせた。
「そいつぁ、俺から答えますぜ。お待たせしやした、勘太郎さん」

 息を弾ませて入って来た火野銀平が深いおじぎをすると、太郎は得心した顔つきでアオヤギの握り寿司を男の前に置いた。
勘太郎は銀平に目で返事をして、鮮やかなオレンジ色の身を黙って口に運んだ。
「うむ……江戸前のアオヤギだ。下地(したぢ)もうめえ」
「ええ、アオヤギはやや癖がありますから、塗ってる下味は濃い目の野田醤油です。お客さんの飲んでいる灘の辛口酒に合いますね。実は、江戸時代の屋台寿司もそうでした」

 その答えに勘太郎は灘酒の盃を飲み干して、今度は大きく満足げに頷いた。表情は、すっかり笑みをたたえている。
「太郎さん、この人は佃 勘太郎さん。代々、江戸前の漁師でよ。年齢は、なんと80歳。火野屋にとっては大切な職人なんだ。太郎さんがメニューに江戸前寿司を出すなら、勘太郎さんの獲った物でなきゃいけねえと思ってよ。今日のネタは、すべて勘太郎さんのだ。おう、ちょうどいいや! 俺にも寿司をじゃんじゃん握ってくんねえ」

 勘太郎の隣に座るや、よほど気分がいいのか、銀平は酌をしながらお銚子を三本おかわりした。そして、腑に落ちない顔のジョージにも大吟醸のおかわりをおごってやり、三枚洲について勘太郎に代わって教えた。
かつての江戸川の河口には、大三角(おおさんかく)や小三角(こさんかく)と呼ばれる広大な中洲(干潟)が広がっていた。「沖の百万坪」とも称され、傾斜のない遠浅だった。潮の満ち引きによって変わるが、今も深い所で5メートルしかない。そして砂底なのでアサリ、アオヤギなどの貝や、ハゼやカレイ、コノシロ、アナゴがふんだんに獲れたのだと言った。
「へぇ、東京の海って、そんなに新鮮な魚介類が獲れるんだ。じゃあ、俺たちが食ってるこのアナゴの天麩羅もそうなの? 身が甘いし、ふっくらして、うまいよねぇ」

 テーブル席から発せられたその声に銀平が胸を叩いて頷き返すと、若い客たちは大いに盛り上がった。

 勘太郎は、太郎が差し出した煮はまぐりの握り寿司をうまそうに平らげると、懐かしむように、それでいて、苦々しげにつぶやいた。
「だけど、昭和の半ばには東京湾が汚れちまってなぁ。あん時は辛かった。生活排水やヘドロで川や海がダメになっちまって、魚も貝も死んじまった。戦後の日本がどんどんでっかくなるためにゃ工場も必要だし、東京の人口も増えるしで、俺たち漁師は反対したが、どうしようもなかった。御先祖様に申し訳なくってよ。陸に上がっちまった漁師仲間も、いっぺえいたんだ……あれから40年、今はようやく海が甦って、ホンビノスなんてぇ外国の貝も住み着くようになったわけだ」

 勘太郎に声がけされたジョージは手元をすべらせ、本はまぐりの貝殻を床に落とした。

 貝殻は高い音を弾ませたが、割れずに勘太郎の足元へ転がった。
「おう、硬い貝殻ですね。薄い殻のホンビノスなら、割れています」
とジョージは感心した。

 勘太郎は動きの止まった本はまぐりの殻を拾い上げると、おしぼりで丁寧に拭いた。そして、酢づけのコノシロを握った太郎へ嬉しげに貝殻を差し出した。

「江戸前のはまぐりの殻は、舟の上じゃ漁師の盃になったんだ。波に揺られておっことしても、割れねえだろ。だからよ……俺たちは江戸前の海を守るために頑張ろうぜって“固めの盃”を、本はまぐりでやったのさ。どうでぇ、あんたも一緒に江戸前の海を守ってくんねえか」
「ありがたく、頂戴します」

 はまぐりの盃に勘太郎が注いだ酒を、太郎は一気に飲み干した。静まったカウンターに、おでん鍋の煮える音が小さく聞こえていた。
 銀平がその盃を「お流れ頂戴!」と太郎から受け取り、声高に言った。
「江戸前ってのは江戸の前の海で獲れる魚介類だから、そう呼ぶんだけどよ。それだけじゃねえ。そこにはよ、江戸っ子の気風や見栄、意地も入ってるんだ。はばかりながら、この火野屋の銀平にもあるんだぜ」
 自慢げな銀平を見向きもせず、ジョージはメモを取り出して勘太郎の語った言葉を走り書きしていた。
「まったく、抜け目ねえアメリカ野郎だな。しかも知らねえ間に、大きな顔してカウンター席に座ってやがる。東京湾に居ついた、ホンビノスみてえなもんだ」
 銀平の声に苦笑するテーブル席の客たちの前にも、うまそうな江戸前の握り寿司が盛られていた。