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七笑酒造株式会社 ~歴史背景

江戸時代の風情を映す中山道に面した七笑酒造株式会社は、明治25年(1892)の創業。
今年、111年目を迎えました。1世紀を超え、新たな出発を感じさせる縁起のいい数字です。
創業者は、川合新助(かわい しんすけ)。現会長・川合 清志(かわいきよし)氏の祖父にあたります。

「私の祖父は明治10年(1877)生まれで、尋常小学校を卒業後、すぐに雑貨商や荷役馬の仕事を始めました。

本人は進学したかったようですが、分家の息子でしたから不相応と言われたのでしょう。それでもあきらめきれず、商いをしながら読書の毎日。ある日、とうとう辛抱できずに家出したのですが、木曽福島の駅で捕まったそうです」
川合清志会長は、そんな逸話を披露してくれました。
なんとも、二宮金次郎を地でいくようなお話し。初代の向学心は人一倍旺盛だったようです。
結局、新助は“学問への志”を“商いの道”に切り替え、弱冠15歳で蔵元を始めるのです。

創業時の店名は「川合新助吟醸」、屋号は「藤新(ふじしん)」、酒銘は“木曽錦(きそにしき)”と“七笑老松(ななわらいおいまつ)”でした。
酒造業を選んだ理由は、酒は底冷えのする木曽福島に欠かせない“生活必需品”であり、鎌倉・室町時代より酒造文化が栄えていること。そして、川合本家がすでに酒蔵を営んでおり、新助の実兄・勘助(かんすけ)を養子跡取りにしたことで、同業をすすめられたためでした。

ちなみに、兄・勘助の屋号は「藤勘(ふじかん)」。酒銘は「ねざめ」で、これは木曽川に洗われる奇岩径石の景勝地に由来していました。

しかし、この「藤勘」も今や廃業し、分家の七笑酒造が酒造りを継承しています。現在、木曽郡内には5醸の蔵元がありますが、新助が創業した頃は14醸ほどが営んでいました。
大正時代(1912~)の木曽郡の造石高は、合計で3,364石。川合新助吟醸は441石で、トップの座にありました。

七笑酒造の酒は、「淡麗さをそなえた、きれいな旨口」と好評です。その“木曽のうまい酒”の礎を担ったのが、初代・新助と二人三脚で歩んだ名杜氏・松沢 玖二(まつざわきゅうじ)でした。
松沢は、今や希少な木曽・小谷村(おたりむら)の杜氏集団「小谷杜氏」の一人でした。
創業当初は近隣の“伊那”から杜氏が来ていましたが、老練ゆえに、若い新助と意見の食い違いが生じました。
「型にはまった古い酒造りではダメだ。新しい木曽の酒を追求しなければ、これからの市場には乗り込めない」
近い将来、鉄道の延伸によって流通革命が起こることを、新助は察していました。
そして、自分と同年代の杜氏を抜擢するという、当時としては異例中の異例を敢行したのです。

新助は20歳そこそこの蔵人・松沢を、国税局鑑定官として長期研修に訪れていた柴田 主税(しばたちから)に預けます。彼もまた、20代の新進気鋭の酒造研究者でした。
「二人で、思うがままに酒を造ってみてくれ。すべて任せる!」
そう言って、新助はその年の酒造りを松沢と柴田に賭けたのです。
試行錯誤を繰り返し、新しい技術と新しい酒質を徹底的に仕込まれた松沢は、ついに渾身の酒を完成させました。
その酒質は、現在も脈々と受け継がれています。
後年、松沢杜氏は長野県を代表する杜氏として功績を残し、昭和25年(1950)には「長野県醸友会」会長の重責も担っています。

明治から大正時代へ移ると、長野県は醸造奨励費を設けて専任技術者を配置するなど、酒造業の振興に注力します。その意図は、第一次世界大戦による工業景気の波に乗り、県内の産業を活性化しようとするものでした。
川合新助吟醸も、県下百数醸の先頭を切って石高を増やし、品評会にも精力的に出品。大正14年(1925)には、1等賞を受賞しました。
しかし、昭和に入ると新助を次々と不幸が襲います。
昭和2年(1927)には、“木曽福島の大火”によって蔵の大半を焼失しています。真昼の火災はまたたくまに広がり、町は土蔵が残るだけの焼け野原と化しました。
それでも新助は、蔵人たちとともに、雨露をしのぐ掘建て小屋で酒を造り始めます。

ようやく立ち直った頃、昭和18年(1945)には企業整備、酒造米の配給制限が新助たちの前に立ちはだかります。
しかし、予想に反して木曽圏の酒造りは優遇されました。他県の蔵元が汲々とする中、木曽郡内は前年対比70%までの造石を認められました。米の収穫は少ない山国ながら、木曽の酒造りに歴史・伝統のあることが、その理由だったようです。
余談ですが、木曽谷最古の名刹・定勝寺(じょうしょうじ)には鎌倉から室町時代の古い酒甕が収蔵されており、文亀元年(1498)に住職が酒造りの事実を記しています。

新助は、太平洋戦争で跡取り息子の新司(しんじ)を失っています。
新司は、明治41年(1908)生まれ。彼が同志社大学を卒業した昭和初期、世の中は軍靴の音を響かせていました。当時の学生たちが異口同音にそうであったように新司は青年将校の道へ進み、昭和20年(1945)フィリピンで殉じたのです。
その数ヶ月前、フィリピンへ向かう夜行列車に乗っていて、木曽路福島に小1時間ほど停車した新司でしたが「同輩たちの中で、自分一人だけ家族に会うわけにはいかない」と律儀を貫き、面会することなく逝ったそうです。
幼い頃から艱難辛苦を乗り越えてきた新助にすれば、ようやく肩の荷を降ろし、息子にゆだねる日を心待ちにしていたはず。
その慟哭はいかばかりであったかと、筆者は斟酌します。
しかし、新助は無念の涙を情熱の炎へ変えます。果たせなかった夢を孫・清志(現会長)に託すべく、命ある限り蔵主をまっとうしようと決意したのです。
新助、68歳の時でした。

昭和32年(1957)、新助が80歳にして世を去ります。65年間を酒造りに賭した人生でした。
この年、亡き父と同じ同志社大学を卒業した三代目・清志は、新助の意志を継ぎます。
すでに昭和26年(1951)には、七笑酒造株式会社として法人化。昭和30年代後半の生産量は約1,000石でしたが、それが昭和50年頃には3,500石にまで飛躍します。
この頃に、松沢杜氏の後継者として現場を仕切ったのが、鷲澤正雄(わしざわまさお)です。師匠と同じく、小谷村出身の天才肌の杜氏でした。
新たな七笑の酒は、全国新酒品評会で昭和38年(1963)、昭和39年と1位に輝き、一躍脚光を浴びました。そして、栄えある連続受賞が花を添えるように、この年、清志の長男・潤吾(じゅんご)が四代目として誕生したのです。

昭和50年代の地酒ブーム期は出遅れたと清志会長は振り返りますが、今の日本酒市場から考えるに、それは妥当な選択であったのかも知れません。
業績を安定させた七笑酒造は、またもや平成4年(1992)、平成5年(1993)に全国新酒鑑評会で連続の金賞。そして、今年も久々に金賞を受賞しています。

東京農業大学で醗酵学を修得した潤吾(現社長)が常務取締役として父・清志を補佐しつつ、新風を吹き込んだ結果のようです。

初代が夢に見た、親子二代での蔵元。おそらく新助は、木曽駒の峰の彼方から2人を笑って見ているのでは……そんな感慨に耽りつつ、“木曽のうまい酒・七笑”を飲ることにしましょう。