

「入社した頃は、新潟から来る季節雇用の杜氏、蔵人中心による酒造りでした。当初、私も住み込みで現場を手伝いましたが、この状況を続けていては、いつか大変な時代がやってくる。社員で構成しなければ、品質と量を安定させることは不可能だと思ったのです」
そう語る八代目・中埜 昌美(なかのまさみ)社長が家業に入ったのは、昭和52年(1977)。中埜酒造株式会社の母体である丸中酒造株式会社の清酒製造石高は、約1万石ほどでした。
上越地方の寺泊町からやって来る職人たちは、長年「國盛」の味を任せてきた信頼の置けるメンバーでしたが、いかんせん年齢平均も高く、若い担い手も年々減少していました。
中埜 社長は、いかにすれば品質を落とさず省力化と安定化を図れるかを模索し、最新鋭設備と熟練職人の連携、そこから後継者となる製造部社員、技術者を育て上げることを決意します。
こうして、昭和59年(1984)に新國盛蔵が完成し、現在の四季醸造による5万石体制がスタートしたのです。投じた資金は年商に迫るほどで、常識を超えた大胆な構想は、設備化をめざす日本酒メーカーとして先陣を切るものでした。
その昭和59年に中埜酢店(ミツカン酢)より出向した人物が、中埜社長の右腕として活躍している馬場 信雄(ばばのぶお)常務取締役です。馬場 常務も、中埜 社長の洞察は正鵠を射たものだったと、当時の状況を振り返ります。「その頃は、いずこの蔵元とも酒造りのすべてを杜氏、蔵人に任されていた時代ですね。つまり腕の良い杜氏、蔵人を探してくることが社運を握りました。しかし、いくら名人であっても、人間ですから失敗作もあるわけです。これに一喜一憂、右往左往していては、メーカーとしての信頼や品質責任があまりに低いですね。そこで社長は、新任の私に開口一番、最新の酒造設備のリサーチを命じたのです」
馬場 常務は、酒造業界の御意見番や重鎮クラスを訪ねて東奔西走しました。そして、さらに厳しい現実を突きつけられたのは、「今は3,000社ある蔵元も、いずれは500社ほどに減少するだろう」と誰もが明言したことでした。
その最大の理由は、酒造職人の激減と品質の不安定にあったわけです。
「実際、新蔵が稼動し始めると、炭素濾過の段階ではっきりと効果が現れました。従来は黄金色だったり薄黄がかったりしていた酒が澄んだ色になり、味、香りとも極上の品質だったのです」
現在の酒質は当時に比べ飛躍的に向上していると、中埜 社長は付け加えます。
「國盛」は平成元年(1991)以後、全国新酒鑑評会金賞を9回獲得しています。通常、全国新酒鑑評会向けに仕込む大吟醸は、小さなタンク1本分を手造りするのが基本ですが、「國盛」の金賞酒は、すべて一般に市販できるよう最新設備を使って大量に仕込んでいるのです。
年々改良を重ね、巨艦のごとき工場棟にハイテクのオートメーション設備を導入した中埜酒造。見上げるばかりの仕込みタンクの中には櫂棒の替わりにプロペラが回り、モロミの温度管理はコンピュータ制御と緻密なデータ分析に任せられています。
では、コストパフォーマンスと高品質を達成した「國盛」を、中埜 社長はどうセールス展開してきたのでしょう。
「昭和50年代の中京市場では、当社の國盛だけでなく、知多の酒のほとんどが締め出されていました。どこもかしこも、灘や伏見のメーカー酒が入ってました。その下請け業に甘んじていては知多酒の生き残る道はない!と“地売りの味と質”を見直し、営業戦略を立て直しました」
首都圏セールスは流通ルートのパワーで維持していましたが、地元・愛知の掌握が手薄になり、新人の中埜 社長が名古屋の新規ターゲットを訪問した時には、「ところで國盛って、どんな酒なの?」と訊かれるほどだったそうです。
これでは知多酒に明るい未来は来ない!と一念発起して、本社営業が地元密着型のセールスに集中。徐々に「國盛」は浸透し、現在では、にごり酒なども定番商品として人気を高めています。
さて、それでは中埜酒造の企業理念、現在の指針を訊ねてみましょう。
「当社の理念は、中埜グループとしての理念でもあります。その基本に、中埜酢店(ミツカン酢)から受け継いでいる“三身(さんみ)の精神”と言うものがあります」
一、 買う身になって、まごころこめて良い品を
一、 働く身になって、まごころこめて良い経営を
一、 経営者の身になって、まごころこめて良い能率を
この中の、最初の一カ条を中埜酒造は企業理念として掲げているのです」
その答え通り、確かに「買う身になって、まごころこめてよい品を」を実現する適正価格・高品質の商品を、近年の中埜酒造は多彩にリリースしています。
例えば、日本酒以外にも酎ハイ、梅酒、黒酢梅酒など、生活者のニーズに応えた商品バリエーションを手がけていますが、これらの矢継ぎ早な商品開発は、もはや中堅酒造メーカーの必須事項であると、中埜 社長は断言します。
「旧来の日本酒業界は規制やルートが絡んでいて、マーケティング戦略を立てにくい市場でした。でも、最近は酒販免許のオープン化など急速に変化してますから、個性的なマーケティングで成功する場合がありますね。当社では、販売チャネル別にフィットする商品戦略をバランスよく推進しています。しかし、その核となっているのは、確かな品質と豊かな旨味を持つ日本酒造りなのです」と、中埜 社長の言葉に力がこもります。
近年、日本酒需要は、差別化された超高級品と大衆廉価品の二極化がますます進むのではないかと懸念されています。この点から見ると、中埜酒造の人気商品はその二者の間に存在している感があります。
また、このゾーンではワイン、発泡酒、焼酎など、多種多様なアルコールジャンルが交錯しています。これについて、中埜社長はどんな見解を持っているのでしょうか。
「幻の美酒でもなく安価な紙パック酒でもない、されど、ブランドはNBほど通じていない酒。確かに、この中間ゾーンのマーケットは不透明なのですが、しかし私は逆に、このゾーンにこそ掘り起こすべき宝が埋まっていると思います。我々酒造メーカーが見落としているチャンスが、多々あると思うのです。実は先日、名古屋のとある飲食店の女将さんが『ウチは焼酎とか洋酒がよく売れるけど、お客さんが“この酒、美味しいね”と言ってくれるのは日本酒だけなんですよ。不思議でしょ。やっぱり日本酒には、そう言わせる魅力があるんですよ』とおっしゃいました。私もまったく同感です。ていねいに造った芳醇で麗しい酒ならば、
きっと喜んでもらえる。ですから、そんなお客様の声やシーンをひとつひとつ見つけ出し、新しいマーケティングを創り出す努力が、日本酒ニーズ復活への使命だと考えています」
筆者は、この日、搾りたての原酒を試飲しました。
高精白や米の種類にこだわり過ぎず、さりながら、ふくよかな旨味と香りを備えた本醸造向けの酒です。取材スタッフと顔を見合わせ、「なるほど!」と中埜 社長の言葉を納得したのです。
それでは、締め括りに人気の「酒の文化館」、そして、展開中の知多酒で乾杯運動について、中埜 社長からアピールしてもらいましょう。
「酒の文化館は、築200年あまりを経ています。3つあった蔵を大蔵(おおぐら)と呼んで、昭和47年(1972)まで酒造りをしておりましたが、昭和61年(1986)にその内の2蔵を博物館に改修し、出来立ての日本酒も召し上がれるアミューズメントスペースにしました。ここの狙いの一つは、古い蔵とハイテクの新國盛蔵を対照的にアピールし、日本酒の歴史・伝統と現代の日本酒技術の良さを、同時に体感してもらうことでした」
中埜社長の解説の後、館内を見学してみると、白亜の工場と伽羅色の文化館のコントラストが際立っていました。かつての当主・小栗家の威光がそこかしこに感じられ、太い梁、巨大な大釜、伝統的な日本酒造りの道具や書簡など、日本酒文化の粋にひたることができます。
ここには毎年6万人もの見学者が訪れ、週末ともなれば観光バスが乗り付け、「國盛」のビデオを楽しみ、“芳醇麗酒(ほうじゅんれいしゅ)”を味わっているのです。
そして、今、「知多酒で乾杯!」運動を社内外に呼びかけている。
「最近、乾杯をする場面で、全国的に日本酒が使われていないと思うのですよ。特に若い方たちの間では、皆無に近いですよね。嗜好が多様化してますから、ビールでも焼酎でもお好みのお酒をお飲みいただければ結構ですが、乾杯だけはとりあえずビールではなく知多酒で乾杯してほしいのです!中部空港の開港・愛知万博を契機に知多の酒蔵6社が地元の5市5町に対して呼びかけたのです!」
熱のこもる中埜 社長の弁に、その手応えは? と訊ねれば、「お陰様で、これが大反響でしてね。すでに半田市の商工会議所、経済界の間では“知多酒で乾杯!”の声が、毎夜、酒席で上がっていますよ!」と、馬場常務も表情をほころばせます。
この冬に向けての「正(しょう)純米」など、新商品を登場させている「國盛」。
読者の皆様も、ご自宅のテーブルで「知多酒で乾杯!」を楽しんでみませんか。