歴史背景

国稀酒造株式会社

増毛町に尽くした創業者・本間 泰蔵の信条は、「恥かく、義理かく、小股かく」

増毛町に尽くした創業者・本間 泰蔵の信条は、「恥かく、義理かく、小股かく」

雪解けのふるさと歴史通りに、ひときわ目を引く木造の蔵棟。軒先には青々とした酒林(杉玉)が吊られ、週末ともなれば、国稀のしぼりたて新酒を求めてやって来る人々で、門前市をなしています。
1世紀を超える伽羅色のゆかしい社屋で取材班を出迎えてくれたのが国稀酒造(株) 四代目にあたる林 眞二(はやし しんじ)代表取締役社長、その伴侶である林 花織(はやし かおり) 取締役です。

「この建物も創業者である本間 泰蔵(ほんま たいぞう)が拵え、町の文化財に登録されています。帳場や座敷など、当時の面影を残しながらご来店下さるお客様に公開し、酒も無料試飲できるよういたしました。つまり、初代・泰蔵の時代と変わらぬ、手売りのおもてなしを心がけています」
柔らかな物腰の中に品格にじむ林 社長を、何故、本間姓ではないのかと読者は思われるはず。実は、本間家の血筋を引くのは花織 夫人。その経緯は蔵主紹介編でじっくり伺うとして、まずは花織 取締役も交えて、増毛が生んだ傑物である創業者・本間 泰蔵の人品骨柄を聴かせてもらいましょう。

四代目・林 眞二代表取締役社長と林 花織取締役

「泰蔵は嘉永2年(1849)生まれで、私たちの曽祖父に当たりますが、元々は新潟県の佐渡ヶ島出身です。明治2年(1869)に20歳で小樽へ渡り、近江(現在の滋賀県)出身の呉服商・松居 政助の下で番頭を勤めた後、26歳で増毛に移り住み、さまざまな商いを手がけました」
用意してくれた古い肖像写真には、月代を剃りチョンマゲを結った63歳の本間 泰蔵が紋付の羽織姿で佇んでいます。豪傑な旦那といった風貌ではなく、若々しい秀逸慧眼な印象。花織 取締役の解説によると、佐渡ヶ島では幕末まで領主の本間 佐渡守の屋敷に裃(かみしも)を納めるなど、和服の仕立て業を商っていたそうです。
本間佐渡守に直接、召し物を納め、しかも本間姓つながりならば、泰蔵は名門の血脈かと推察できます。実際、後年に佐渡ヶ島の本間家から増毛へ移した累代の位牌には、室町時代の物もあったそうです。

それはさて置き、明治維新からの10年間、東北や北陸の日本海側からは、北海道への移民が北前船に大挙して乗り込みました。新天地の開拓吏や屯田兵、石炭を運ぶ沖仲士、さらには彼らの生活物資の商人など、一攫千金を夢見る移民が混沌とし、港町の函館や小樽は人種の坩堝と化していったのです。
ほとんどの移民たちは質素な衣服しか纏えず、京都や大坂の古着が北海道へ大量に送られました。おそらく泰蔵は、北前船の寄港地だった佐渡ヶ島で古着の山を目の当たりにし、呉服商としての成功を予見。機を見るに敏な才覚で、小樽へ渡ったのではないでしょうか。それが証拠に、たった5年ほどで泰蔵は松居政助呉服店の番頭を任されているのです。

「ところが順風満帆とはいかず、明治8年(1875)松居商店が閉店になり、泰蔵はつまずいてしまったようです。それでも、苦肉の策だったのでしょう。店の在庫商品を参百円で買い取り、行商を始めます。そして、翌年には増毛の弁天町に店を構えて長期滞在したのですが、この時に目をかけてくれた金融業者との出会いが、泰蔵の人生の明暗を分けたと思います」
花織 取締役いわく、着物を売り歩く泰蔵に目をかけてくれた高利貸しの女傑がいたそうです。その女性は呉服店舗を泰蔵へ提供し、なにくれとなく援助しました。明治13年(1880)には、泰蔵は火災によって店舗を失いますが、さらにこの女性は泰蔵へ投資し、救いました。この恩を泰蔵は生涯忘れず、女性が故人となってからも仏間に肖像を奉り、墓を建て、髪の毛を納めたそうです。

しかし、明治のしたたかな金貸しが、簡単に泰蔵へ肩入れしたとは思えません。否、彼女に惚れさせるのも、泰蔵の如才なさだったのかも知れません。
それほど泰蔵の商才に賭けてみたくなった理由があったはずと、林 社長へ問うてみました。
「実は、本間家には家訓のような、泰蔵の3つの信条があります。『恥かく、義理かく、小股かく』と言いまして、特に小股かくとは、人の股をくぐり抜けるようにして、抜け目なく金を稼ぐことです。生き馬の目を抜く激動の明治維新にあって、とにかく行動的で、そつがなく、何でも記録するメモ魔でもありました」
なるほど、その三か条を聞いて、筆者も女傑に一目も二目も置かれた泰蔵を得心しました。

息を吹き返した泰蔵は、その後、水を得た魚のように働きます。耐火性の強い石造りの店舗を完成させ「丸一本間」の商標を掲げると、荒物雑貨を道北で販売。さらに増毛でのニシン漁、廻船業にも手を広げ、明治17年(1884)には故郷の佐渡から妻・チエを迎えて、長男の泰輔も誕生。いよいよ国稀酒造の母体である酒造業を本格的に開始したのです。泰蔵35歳の年でした。

紋付羽織姿の創業者・本間 泰蔵
明治維新の小樽港
3つの心情は「恥かく、義理かく、小股かく」
火に強い、石造りの店舗

矢継ぎ早に商いを増やし、泰蔵は丸一本間を拡張していきました。本土からの移民を運ぶ大型船、ニシンや雑貨の貨物船を購入すると、留萌から宗谷の沿岸、利尻島や礼文島への酒の拡販にも活用。醸造業はさらに多忙となり、明治32年(1899)には道内醸造家で5位、出荷量179キロリットルを誇る銘醸に発展します。その礎は、すでにメダルを獲得していた内国勧博覧会での評価の高さにありました。
明治期後半の丸一本間合名会社の人気の酒銘は、「長久」「松月」「國の誉」など。実は、この國の誉から現在の主銘「国稀」が誕生します。

明治37年(1904)から翌年にかけての日露戦争では、旅順侵攻作戦で多くの戦死者を出し、増毛町からも若い命が殉じました。終戦後、増毛町では慰霊碑建立が計画され、泰蔵はその発起人となります。そして、戦勝の英傑である乃木 希典 大将の自宅を東京に訪ね、碑文の揮毫を願い出たのです。
乃木大将自らが面会し、国に命を捧げた若者への哀悼を示すと、泰蔵は感激し、増毛へ戻るや、乃木希典の「希」を拝して酒銘・國の誉を「国稀」に改名。乃木大将の名前をそのまま使うのは、あまりにも不遜でおこがましいと考え、「稀」の字とし、国に稀なる美酒という意味も併せました。

丸一本間合名会社に成長
かつての銘柄「國の誉」

さて、泰蔵の八面六臂の商いで、一代にして大店に上り詰めた丸一本間合資会社ですが、後継者については不幸がつきまといました。
嫡男の泰輔は病に臥せりがちで、嫁を娶ってからも子どもがなく、娘の千代に男子を授かりますが、翌年の大正5年(1916)、千代は急逝しました。さらに千代の産んだ一夫は、5歳で脳膜炎によって失明します。
また、泰蔵の妻・キミも、明治41年(1908)に52歳の若さで他界していました。
重なる不幸に泰蔵は悩みますが、これを支えたのが、長男・泰輔の嫁となった本間 キミ(旧姓・下国)でした。プロローグ編でも紹介した旧・松前藩の家老・下国 濱三郎(しもくに せいざぶろう)の次女で、上磯郡茂別村(現在の北斗市)に居館を構えていた戦国武将・安東 家政(あんどう いえまさ)の血筋に当たります。つまり、泰蔵は松前藩きっての武家の娘を嫁に娶ったわけです。

しかし、明治政府の樹立後、各地の士族は家禄を失い、没落し、とりわけ松前藩は戊辰戦争の最終決戦地・函館五稜郭のせいで、惨憺たる状況に陥っていました。それでも、武士としての因習や格式は、彼らの暮らしの中に厳然として残ったまま。当主の下国 濱三郎は、明治10年(1877)に茂辺地小学校の初代校長に就任していますが、おそらく守銭奴が横行する新時代の不条理に困窮していたことでしょう。
明治43年(1910)、泰蔵はキミの輿入れに、丸一本間合名会社の汽船「太刀丸」を満艦飾に彩って函館近郊の七里浜へ出航しました。
「増毛に着いたキミを地元の人たちは総出で迎えますが、嫁入り道具の長持や行李を持ち上げて、一様に驚いたと伝わっています。中身が軽く、名門武家といえども斜陽していたのでしょう」
そう語る花織 取締役は、在りし日のキミの楚々とした面差しを受け継いでいるようにも見えます。

二代目・本間 泰蔵とキミ
元・松前藩家老 下国 濱三郎
キミを迎えた、満艦飾の太刀丸

泰輔夫妻は、亡き妹・千代の一粒種だった一夫を養子として育てました。泰蔵自身、すぐれない体調を押して、二人は一夫の眼を治すために東奔西走し、名医に受診するため東京へ長期滞在するほどでした。
この間、丸一本間合名会社は老練な泰蔵を大番頭たちが支えましたが、次男・泰一の存在も光りました。彼は泰輔と八つちがいの弟で、長身大柄。型にはまらない親分肌の人物でした。
「泰一は、北海道競走馬の先駆者でもあったようです。岩見沢に牧場を構えて、ばん馬からサラブレッドまで育てるなど、豪放磊落な性格だったと聞いています」
林 社長から預かった写真には、丸一本間商店の社員たちと納まる熱血漢らしき泰一が窺えます。実は花織 取締役の祖父が、この泰一です。

嫡男の泰輔は泰蔵が大正14年(1925)に75歳で隠居すると、社長に就任します。
しかし、昭和2年(1927)ついに泰蔵が逝去し、後を追うかのように、翌年、泰輔までも早逝したのです。泰輔とキミが育てる一夫は、まだ6歳。多角的な社業、子育て、看護の難題が、キミの両肩にのしかかりました。
キミは、武家の子女らしく毅然として采配を揮います。時代は満州事変の勃発などで軍国化の靴音が聞こえ、酒造業には原料米の翳りが見えていました。また、海外からの輸出・輸入の制限、本土産業の低迷から海運業も沈滞。火急の状況下、キミと力を合わせた義弟の泰一も昭和12年(1937)に逝去します。
キミは暖簾を守るために、事業の縮小と存続を図ります。昭和3年(1928)には呉服業、その5年後に海運業、さらに泰一の牧場を廃業し、戦中から戦後にかけては企業統制の波をかわしながら、酒造業を核として国稀の銘を世に広げます。丸一本間合名会社にとって臥薪嘗胆の時代を、キミは女手一つで乗り越えたわけです。

キミは昭和43年(1968)に引退するまで、酒造業と増毛の漁業・水産加工業を維持し、三代目の泰治へ代表社員を引き継ぎました。
泰治は後に増毛町町長を務めた人物で、花織 取締役の父です。公職にあるため、平成以後は、妻の擴子が蔵元を経営し、泰蔵からキミへと引き継がれた千石酒屋の矜持を維持します。

昭和末期の出荷量は2000石を超え、林 眞二 社長が就任した平成13年(2001)には、社名を国稀酒造株式会社へ改め、全国新酒鑑評会で金賞を受賞するなど、名実ともに道内屈指の名門蔵元に躍進。出荷量も4000石を誇っています。
本間家の150年にわたる系譜と功績は、古くから蝦夷地の漁場として衆目を集めていた増毛を、近代化する道北の拠点に発展させた中興の祖と言っても過言ではないでしょう。
そこには、佐渡ヶ島から単身、北海道へ乗り込んだ創業者・泰蔵の哲理だけでなく、同じ移民として増毛に暮らした民衆への愛情を感じます。

泰輔夫妻と、養子の一夫
泰蔵の次男・泰一(前列・右)
三代目・本間 泰治と妻・擴子(中央2名)

歴史背景のしめくくりに、筆者は泰蔵の慈愛を体現した偉大な先人のことを語らずにはいられません。
二代目・泰輔とキミ夫妻が養子として育てた本間 一夫。彼は、全盲のハンデを負いながら、全国に点字を普及すべく昭和15年(1940)に「日本点字図書館」を開設しています。
昭和4年(1929)一夫は函館にあった盲唖院へ入学し、点字と初めて出会います。それまで書物と接する機会がなかった一夫にとって、点字は世界を一変させたことでしょう。
点字の読書に没頭する中、一夫は鍼治療などの医学点字書が多く、文学作品が乏しいことに落胆します。
「目が見えなくとも、心の中に感動を生む文学や文芸書を点字にしたい。そして、盲人が学べる点字の図書館を作りたい」
一夫は、近代盲人福祉の先覚者で関西学院大学の教授であった好本 督(よしもと ただす)の著書を愛読し、青雲の志を抱くのです。

昭和11年(1936)一夫は、当時、盲人を唯一受け入れた関西学院大学へ進学し、卒業すると盲人社会事業社「陽光会」の月刊誌・点字クラブを編集しながら、着々と図書館設立に向けて活動します。そして25歳を迎えた年、6畳の小さな点字図書館が東京都雑司が谷の借家に創設されました。一夫が揃えた点字本は、700冊。遠方の盲人へ郵送で貸し出すなど、惜しみない社会貢献を行います。
49歳の時には世界盲人福祉会議に参加し、ヨーロッパを視察。帰国後、図書館を3階建屋に改修し、昭和44年(1969)に美智子妃殿下の御来館を賜りました。
近代化する日本の教育に平等と慈愛を生み出した一夫に、日本政府からは勲四等旭日小綬章が贈られています。

まさに国の誉れを体現した本間家の歴史、その生きざまのしずくが、今、銘酒「国稀」として受け継がれています。次編の蔵主紹介では、四代目・林 眞二 社長が描く国の誉れを、じっくりと拝聴することにしましょう。

幼少期の本間 一夫
開設当時の点字図書館と一夫
国稀酒造の看板